紀勢本線、3161列車と3160列車。それは、和歌山県内を走った最後の貨物列車である。当初
『和歌山県内最後の貨物列車』というタイトルを想定していたのだけれど、末期はコンテナ化さ
れており、インターネット上も"コキ"時代の画像が大多数を占める。コンテナが趣味の対象外で
ある筆者には「一緒にするな」という思いが強く、あえてぼかしたタイトルを冠した(……最後の
車扱貨物列車、と書くのが的確なのだろうけど、少々マニアックな語句なので)。
 写真は特記以外、国鉄最後の月、1987年3月の撮影である。
 撮影地も撮影日時も狭い範囲に集中ということで、1ページに一挙掲載。

おっとっと、タイトル画像は三重県内です(笑)。新鹿付近 1988. 3
「これ」と同じ立ち位置から同じ列車を撮ったものが元写真。

 

 

3161列車、新宮到着  新宮駅の島式ホーム、旅客用線路のすぐ
隣に長大な貨物列車が到着。約30分の間、
視界が遮られて広い構内が見えなくなる。
帰り便は少し奥の線路で入換(鵜殿発の貨
車と紀伊佐野発の貨車を併合)が行われる
ため、これほどの迫力はなかったと思う。
(記憶ナシ。3160列車が新宮を発つ場面は
ページの最後に掲載)

 

 

 

DD51を切り離す。重連はここまで

 貨物時刻表の上では、新宮は3161列車にとって「貨車の入換を伴う停車駅」に過ぎな
かった。しかし実際は、別の列車にしか見えないような姿となって紀伊佐野へ向かう。ま
ず重連のDD51が切り離されて側線に消え……

 

 

DD51が「ヨ」を連れてきた

 1両となったDD51が車掌車を牽いて戻ってくる。この機関車はこれから新宮→(空車牽引)→
紀伊佐野→(単機回送)→新宮→(空車牽引)→鵜殿→(積車牽引)→新宮→(単機回送)→紀伊佐野→
(積車牽引)→新宮と慌ただしく走り回る。お昼寝のもう1両を使えば単機回送が不要になるけれ
ど、乗務員の行程を考えれば1両で済ませた方が効率的なのであろう。
 なお車掌車は、亀山から尻尾に付いていたのとは別のクルマ。どこから現れたかというと……

 

 

 

 実はこうして、独りぼっちで
貨車が来るのを待っていた。
車掌車がぽつんと佇む国鉄末期の新宮駅構内

 

 

 

架線の下を紀伊佐野へ

架線の下、名実共に「和歌山県内」の区間へ! といっても終点まで僅か6.4km。

 インターネット上には「紀伊佐野へ行くのは有蓋車6両」などという記述が見られるが、
スキャン時に確認したら、この列車は有蓋車を9両つないでいる。

 

 

 

紀伊佐野、国鉄様式の駅名標  懐かしい国鉄様式の駅名標。隣の駅、
宇久井の読みは当時「うぐい」だった。
 ここもまたインターネット上の情報が
写真と整合しない。書き換えられた形跡
があることから、うぐい→うくい→うぐ
い→うくい、という変遷を辿ったと考え
られる。地名は「うぐい」なので、最後
の変更は不可解。駅名標を書き変えただ
けで正規の書類には手を着けておらず、
JR西日本様式の駅名標へ交換した際、
書類に合わせて……というのが答えか?
部分伸 JR西日本様式の
駅名標が採用される
以前の時刻表を調べ
たら……うくい!
(JTB1989年3月号)

 

 普通列車が急行型だった頃に、紀勢西線の単線区間は大半の駅で降りてい
るが、残念ながら宇久井は現行の駅名標へ取り換えられた後だった……
 その昔、山陽本線土山駅の乗換案内で別府(べふ)鉄道の行先ローマ字表記
が FOR BEPPUKO になっていたという話を聞いたことがあるけれど、こち
らは「書き換えられた形跡」がやたらと気になる。
 書体の微妙な違いは拡大画像より全景画像の方が分かりやすい。

 

 

扉を開けたままワム80000が押されてきた

(これを撮った直後)さらに有蓋車が入換機に推進されて姿を現した。よく見ると
扉が開いたまま!

 

 

 

三重から和歌山へ戻る小運転貨物列車 161レ
1992. 2

 DD51は紀伊佐野から鵜殿へ移動、積車を牽いて新宮へ戻る。紀伊佐野側・
鵜殿側とも、区間運転では車掌車がすべて機関車の次位だったのが惜しい。
 列車番号は空車の鵜殿行が160、積車の新宮行が161。160列車が熊野川を
渡る様子はこちら

 

 

 

 再び紀伊佐野駅にて。
 迎えにきたDD51がちょうど貨車と連結
された瞬間(まだ尾灯が点いている)。
 この後いよいよ3160列車として出発……
と思いきや……
尾灯を点けて入換中のDD51

 

 

 入換運転でわざわざ旅客列車と同じ上り
ホームへ転線。信号システム上は貨物も"中
間駅"のままだったらしい。つまり、この位
置に持ってこないとCTCが列車を認識し
てくれないのだろう。
旅客ホームで発車を待つ貨物列車

 

 

 写真と手持ちの資料だけではページ作成に不安を覚えたのでネット検索してみたら、鵜殿は大量に
出てくる一方、紀伊佐野に関する情報の少ないこと! やはり、1995年廃止と2013年廃止の差は大
きい。年月の経過だけではなく、いやそれ以上に、インターネットが普及する前と後の差が。

 

 

鵜殿編成に時々入っていた液化塩素積タキ5450

1987. 8

 帰り便の3160列車については、新宮駅における
入換の様子を何も覚えていない。"鵜殿編成"には
液化塩素を積む黄色いタンク車が1両(目撃した
ときはすべて1両だけであったが、2両以上の日
もあったようだ)連結されていることがあった。
 撮った筈の写真が見つからないと思ったら、フ
ィルムの最終コマで右端が正しく処理されておら
ず、プリントを処分したらしい(ネガから発掘)。
 車掌車の連結位置と入線位置から推して、これ
は到着後の161列車。

 

 

 

3160レ出発 有蓋車の長い列、最後尾は車掌車

 新宮を後にする3160列車。入換はすべて終了、これから列車はひたすら遠い目的地(貨車は東京都区内
まで行く)を目指す。有蓋車の長い列、そして最後尾は車掌車! 撮影時でも希少な光景であった。