前回に続き、後期ロマン派"闘争→勝利型交響曲"で終楽章コーダが近づいてきたような内容となります。成功話や自慢話がお嫌いな方にはお薦めできません。

遠い記憶から(高校篇3)

 高校3年生時の記憶はひどく断片的なので題目形式。

●K教諭の大失敗
 現代国語のK教諭は「哲学科」の出身。
 以前に勤めていた学校では社会科を教えていたのに、その後、着任した際に「哲学科ということは、現代国語ですね」と勝手に決められて転向した……とは本人が言っていたもので、事実か創作かは定かでない。
 彼には妙な性癖があった。話が授業内容から脱線すると、最後は必ず「生徒には理解出来ないことを前提に」哲学のかなり専門的な話に入り、適当な生徒の目を見て、
「そうだよな」
 生徒の側は曖昧な笑みを浮かべるしかない。どう考えてもいい趣味ではないものの、友人グループ内で全く悪評を聞かなかったのは、教師としてある種の才覚があったからだろう。
 ある日、なぜか専門外である筈の音楽へ話が向かった。
 このシリーズ、正確に覚えている筈のない会話の端々は創作で補っているけれども(長いこと同人誌作家をやっていたのでこれは容易)、史実が基になっている話ではその方法が取りにくい。なので、芥川也寸志の音楽エッセイ『音楽を愛する人に 私の名曲案内』(ちくま文庫)から該当の話を引用する。

 ナポレオン・ボナパルトが周辺の専制君主を次々に打ち破っていく様子が、ベートーヴェンには「抑圧されてきた民衆を解放してくれている」と映ったらしい。それで、

 一八〇六年の春に完成したこの交響曲の写しを、ベートーヴェンはフランス大使館を通じてパリに送ろうとしたそうです。もちろん、ナポレオンに献呈するつもりでした。ところが五月十八日にナポレオンが皇帝に即位したという知らせがウィーンにとどき、表紙を破り取り、楽譜を床にたたきつけ、(中略)『あの男も要するに俗人であった、あれも自分の野心を満足させるために、民衆の権利を踏みにじって、誰よりも暴君になるだろう』と叫んだ - と(後略)

 ここでK教諭は「やらかして」しまった。話ここう締めくくったのである。
「そして、楽譜の冒頭にただ『皇帝』どだけ記した」
 当時、既に「ショルティのベト3だったらウィーン・フィルとの旧録がオススメ」などと音楽好きの級友に言っていたいっぱしの"マニア"であった。俗に言う「反応、早ッ」というヤツで「おいおい」とばかりにK教諭の顔を見たら、そこで目が合っちゃった!
 大間違いをしているとは露知らないあちらさんは、いつものように、
「そうだよな」
 仕方がないから、なるべくボソボソッとした口調で、
「それ、"皇帝"じゃなくて"英雄"ですけど」
「……あ(動揺)、そうかそうか、そうだった(誤魔化し笑い)」
 教室内がドッと沸いた。ただ、喝采の中に「なんなんだよ不愉快だなあ」という感じの声が混じっていたのは忘れがたい(同人誌作家の頃、この体験を大きく変形した上で小説の中に描いてしている)。私立専願コースは「文系科目に絞れば高い水準で勝負が出来る」と戦略的に入ってきた一握りの連中(3分の1いたかどうか)と、どの科目も均等に出来が悪いから仕方なく科目数の少ないコースに来た連中とにはっきり分かれていた。
 いがみ合っているというほどのことはなかったけれども、試験結果が出る度に集まって「ヨーシ勝ったぁ」とか「あーヤラれたぁ」とか陽気に騒いでいた我々が『デモシカ私立専願』グループからはどんな風に見えていたのやら。

 注釈。ベト3とは「ベートーヴェン:交響曲第3番」の略で、マニアが好んで使う表現。チャイ4、ブル5、ドボ8、マラ6、という調子。何の略かお分かり?

●記憶が薄過ぎる優等生街道2年目
 3年生時の成績については記憶が殆どない。"落ちこぼれから優等生へ"の大変身を遂げた2年生時と違い、前年度から続く道を淡々と進んでいたせいだろう。
 ただ、別のページに記した「中高6年間の定期試験で唯一クラス内1位を記録したのが2年生の1学期末」は記憶違いだったようだ。朝礼前後の"非公式2者面談"で、まだ公式には発表されていない定期試験結果の話が出ているのに気付き、手が空くのを待って訊いてみたとき「オマエがトップや」とぶっきらぼうな返事をしたのは、確かに3年生時の担任N教諭だった。
 そういえば、いよいよ「受験前」という空気が濃くなってきた2学期、終礼のときに突然業者試験での筆者の点数が「公表」されたことがある。
 趣旨は「この成績でやっと関関同立に行けるかどうかという話になってる」それで、平均かそれ以下の生徒に対し「オマエらいったいどうするつもりやねん」
 そう言いたくなる教師側の気持ちも分からないではないけれど、私立専願クラスは上と下でスタートラインが違うからどうしようもない。引き合いに出した"優等生"が、2年前は校則どおりの外泊届を出しただけで嫌味を言われる"落ちこぼれ"だったことを、おそらく教諭は知らなかったろう。俺だって精一杯やってんだよ、どうしたらいいのかコッチが訊きてえよ、と幾度思ったことか……とはいうものの、落ちこぼれ時代は現実逃避で遊びまわっていたんだっけ(爆笑)。
 印象に残っている理由がもうひとつ、"世界史の点数が間違っていた"こと。業者試験も受験前対応で「国英社」の3科目、ものによっては社会科だけ配点が低く、実得点と得点率(100点満点換算)の両方が示されるのを混同して、実際より優秀な成績にされていた。
 直後に友達連中が言ったものである。
「さっきの間違ってないか?『え? あいつそこまで優秀だっけ』と思った」
「あの点数だったらさすがに関関同立は余裕で、早慶狙いになるよな」
 訂正しようかと考えて、趣旨からするとワザと間違えた可能性がなきにしもあらずかと何も言わなかったのは微かに覚えている。教師陣の週休二日制徹底という理由から「副担任」が導入され、このとき終礼を担当していたのは担任である古典のN教諭ではなく世界史のI教諭だったからなおさらだった。
 こんな扱いをされたということは、おそらく定期試験でもそれなりの成績で突っ走っていたと思われ、もう少し記憶に残っていてもよなそうなものなのに。

 この学期、定期試験の現代国語で中学時代を含めても自己ワーストの40点台を取ったのだけはよく覚えている。落ちこぼれ時代でも常に60点以上あった筈。筆者に大間違いを突っ込まれたK教諭が、こんな慰め方をしてくれた。
「ちょっとずつ解釈がずれてただけ、何も心配しなくていい」
 現代国語といえば超のつく得意科目で、新聞に掲載される「共通一次試験(齢が分かる)」を解いたら80~90点は取れた。あの定期試験で何が起こったのかは今もって分からない。優等生街道驀進中とはいえ、次の試験がとにかく待ち遠しい、という気分になったのはさすがにこのときだけであった。

●宗教の点が悪い驚きの理由
 文章化のため記憶を整理していたら、どうやらこれは2年生のときだ。
 文字数の関係上、予定通りここに記すことにする。
 3者面談の際、母が思い出したように尋ねた。
「この子、どうしてこんなに『宗教』の点数が低いんでしょう」
 実は、▲風中学校・清▲高校には、時間割に「宗教」がなかった。年に何回かどうしても発生する休講を利用して数回だけ授業があり、後は毎日の朝礼(学校の近くでは"3千人の般若心経"が毎朝聞けた)と、3年間で2度の「修養行事」を授業代わりとする。筆記試験も40点満点で、残り60点は平生点。
 点数が低いといっても、別に悪化した訳ではなくて、突然の優等生化で「宗教」だけが妙に目立ち始めたのだった。
「あー、実はですね」担任のG教諭はちょっと苦笑いしてから、やや言いにくそうに説明を始めた。
 宗教の教科書代わりは、(学校の経営実務からはとうに退いた)老学園長の著書である。筆記試験はここからの出題が半分、どういう訳か残りは「日本国憲法(中学の前半は聖徳太子の17条憲法)」の何条から何条まで暗記してこい、という内容だった。中学1年生のときから、学園長の本なんか勉強するのは馬鹿馬鹿しいと白紙答案、憲法だけ真面目に暗記して解答していた。
「憲法の配点、1条につき1点なんですよ。なので、平生点をいつも満点にした結果がこれでして」
「エーッ。今まで知りませんでした」と筆者。
 中学校のE教諭も、悪夢の1年を担当したT教諭も、学園長の本をちゃんと勉強しないと駄目じゃないか、なんて一言も言わなかった!
 教壇に立つ「現場の教師陣」も、学園長の本なんか勉強するのは馬鹿馬鹿しいというのが共通認識だった模様である。
 ゲンキンなもので、それからはちゃんと試験範囲のページを読むようになった。無試験の「指定校推薦入学」が意識の片隅にチラチラし始めた時期だったもので……(実際は、校内定期試験より業者試験の点数が重視され、宗教の成績なんぞ影響しなかった)

 『修養行事』は特別な"必修"科目で、これに参加しないと卒業できない。病気欠席すると後日「再行事」に行かされる。中学高校とも1年生では泊りがけで高野山へ(あちこちの宿坊へ分散泊)、これは瞑想や座禅などさせられる文字通りの「修養」行事だが、2年生のは単なる「お伊勢参り」で、上本町が最寄駅ということもあり近鉄の特急型車による「団臨」に乗せて貰えた(高野山はおそらくケーブルカー区間がボトルネックとなるためバス、3年生時は行事ナシ)。中学のときは"スナックカー"系列だったのに、高校のときは当時でも唯一の転換シート特急車(詳しくは"18200系"で検索を)が充当されており、独特の「顔」を見た瞬間ゲンナリ。
 どの学級にも一人や二人「テツ」はいるもので、ホームを歩く行列の後方から、
「うわっ、いちばんボロいのを持ってきやがった」
「オイ、理系の上位クラスはビスタカーやぞ」
 という声が聞こえてきたのも今となっては懐かしい。

●ちょいワル遊びと裏切り事件(←やや大袈裟)
 3年生のときは、教室で毎日「おそらく校則違反」の遊びをやっていた。当該の校則は「学習及び運動に必要なもの以外は持参してはいけない(当時の生徒手帳より)」という抽象的なもの。抜き打ちの持ち物検査も行われていたけれど、鞄に新潮文庫『楡家の人びと(北杜夫)』が入っていたら咎められるとは考えられず、筆者には無縁だった「少年ジャ○プ」の類も(いい顔はされなくとも)ペナルティの対象にはならなかったとの記憶あり。じゃあ「交通公社の時刻表」は?「鉄道ダイヤ情報」は? と考え始めると訳が分からなくなる。
 その中でも「限りなくクロに近い灰色」のブツを持ち込んで……具体的にはトランプ・カードを持ち込んで、休み時間ごとに『大富豪』に興じていた(さすがに灰色じゃなくてまっクロだったかな。でも紙切れの駒で将棋をやるのは公認されていた)。常連は内部進学者(=6年越しの付き合い)で、みんな学級内の成績中~上位者。
 あれは、成績中位以下の「デモシカ私立専願コース」連中に対するアピールを兼ねていたかもしれない。
「オレたちゃただのイイ子チャンじゃないぞ。結束が強いから、ちょっかい出してきたら集団的自衛権を行使するかもしれないぞ」
 それなりの効果はあったような気がする(平穏無事だったから)。
 ある昼休み、いつものようにゲームの真最中、突然担任のN教諭が入ってきた。出入口から最も遠い窓沿いの席に集まっていたが、教諭の姿を視認した次の瞬間、席の主以外の参加者は一斉にカードを投げ出して回れ右! 視界の隅に、大慌てでカードの上にノートや教科書を被せる姿が映っていた。
 もちろん教諭が去った後は、
「お前らなあ(怒)」
「ゴメン! 身体が勝手に反応してしもた」
 おそらく見つかってはいなかったと思う一方、仮に見つかっていても、たいしたことにはならなかったろうとも思う。
 このN教諭も、一度"大失敗"をやらかしたことがある。
 業者試験のマークシート式解答用紙上部記入欄についての説明で、
「担任名という欄には"大阪"と書くように。いいな、担任名は"大阪"」
 それって、記入例に書いてあるのをそのまま言ってないか? とあちこちでヒソヒソ話が起こった。案の定、試験結果の用紙には『担任:大阪先生』……他のクラスでは特に担任名の「偽名化」が行われた気配もなく、当人はまったく弁解しなかったけれど、職員室では笑いの種となっていたに違いない。

●指定校推薦入学のゆくえ
 これは無試験である代わり、進学後の成績が高校側へフィードバック(?)され、あまり出来が悪かったり素行上の問題を起こしたりすると「指定取り消し」が行われる。大学卒業まで高校の看板を背負うことになるぞ、というのが学校から示された注意事項。どこの大学の何学部から推薦枠がある、という情報が示されたのは秋も深まってからだった。
 目に止まったのが、関西大学社会学部。
 模試の成績だけを見ればもっと上に行けそうだったが、教師陣からの信頼は抜群なのに(オレは落第経験者だぞ、そんなに期待するなよ、と"優等生化後"は幾度も思った)親からの信用がなく、推薦入学が可能ならその方がいい、ということで志願。
 「上」を受験してほい担任の方は不承不承「親の意向なら仕方ないな。多分オマエなら大丈夫」と願書を持って行った。
 思わぬ結果が伝えられたのは体育祭のときだった。学校の運動場は生徒数に比して極端に狭いので、長居の球技場を借り切ることから、この記憶はかなり鮮明である。学級内に一人、推薦入学が決まったことが知らされ(これ以後、彼は毎日が掃除当番の一員にされた)、次に筆者の方を向いて、
「アカン。別のクラスから私立文系コース内ヒトケタ(席次)の奴が志願してきてる」
 筆者がいたのは3年R組、Wまでが私立専願だったのは確か(Xは欠、Yが"スポーツクラス"、補習授業か何かでこの教室に入ったら、時間割に「筋トレ」などというのがあり仰天した)。ただQ組が国公立併願か私立専願か記憶になく、"分母"は250~300人という数字しか示せない。その中で筆者は業者試験年間集計16位だったとのこと。上位10パーセントにはいたものの、飛びぬけた優等生ではなかったらしい。それにしては教師陣からやたらと期待されたのは「出題傾向による点数の振れ幅が大きいタイプ」で、コイツは面白いかも……という見られ方だった可能性がある。
 振れ幅が大きくて合計値16位ならヒトケタを取ったこともありそうなので、記憶の片隅にある「6位」という数字(前回参照)は3年生時の自己ベストかもしれない。

 3年生時の成績をはっきり覚えていないのは「数学の授業がない」という凄まじいカリキュラムゆえに業者試験も別集計、精鋭クラスと同じ土俵に乗る機会が失われたことも影響しているようだ。

●雪の大学受験
 1990年1月31日の天候は生涯忘れないだろう。
 この日はなんと「卒業式」である。国公立なら一次試験と二次試験の合間、私立は試験日直前という変な時期になんで? と首を傾げたくなるけれど、ここで式典をやっておけば羽目を外してトラブルを起こす生徒は出るまい、という徹底した「性悪説による管理教育」の指針に基づくものか。
 校門を出た頃にチラつき始めた雪は時間とともにその量を増し、大和川から南は吹雪といってよい状況で、最寄駅から実家へ歩くのが大変であった。詰襟の肩や制帽の上をまっ白にして帰宅、夕刻には銀世界となった。
 大阪では後にも先にもこんな雪の積もり方を見たことがない。積雪といえば気温の下がる夜中で、起きてビックリというのは何度もあるけれど、日中にどかどか積もるなんて(現在と違い、一時的に積もって止むとすぐ溶ける……というのは珍しくなかった)。
 翌朝は危惧した通り電車のダイヤが大きく乱れ、通常の所要時間から1時間くらい余裕を見て初日の受験会場へ向かったことだった(結果的に、初日に受験した関西大学法学部へ進学。かなり格下の社会学部に推薦入学しなくてよかった)。
 印象に残っているのは、最後に受験した"因縁の"関西大学社会学部である(合格通知を手にした後だったR谷大は不受験)。
 正門付近の掲示と受験票を照合し、割り当てられた「経済・商学部」の建物へ向かっていたときのこと。学内の樹木は枝にまだたくさん雪を残していて、5メートルくらい前を歩いていた受験生の頭上へ、その雪がドサッ!
 今でも、当時のことを思い出す度に、答えを知る術のない問いが頭に浮かぶのである。
「雪が直撃したあの受験生、合格したのかなぁ」
 筆者自身は「問題用紙の裁断不良」に当たった。英語だったと思う。ページが繋がっていたのは数ミリだったのでビリビリと破いていたら、音を聞きつけた係員が飛んできて取り替えてくれた。
 この日の夜、関係ない筈のE教諭(中学3年間の担任)から電話がかかってきた(3年R組の担任からは初日にかかってきて"手応え"を訊かれている)。
 受験の話をしてるのに筆者自身が電話口に呼ばれなかったから相手は親戚だろうと思っていたら、通話を終えた母が「E先生から」だと言う。
「本人は"関大の社会学部は貰った"と言ってます」
「あー、僕らの経験では『簡単やん、ほとんど解けた』という感じのときはむしろ良くないですよ」
「感じ、ではなくて、帰りに(予備校関係者が学生街で配布する英語の模範解答で)答え合わせをしたら、90%近くあるそうで」
「それなら大丈夫だ。へェーっ」
 という会話が交わされたらしい(法学部は受験日程の初日だったから、翌日以降の"戦意喪失"が怖くて答え合わせをしなかった)。
 数学での落ちこぼれ経験が強烈で忘れかけていたけれど、中学へは「算数がむしろ得意科目」という状況下なのにギリギリ補欠合格で滑り込んだんだっけ。
 劇的な中学高校生活だったよ、ホント。

 翌日(法学部の合格者が発表される前日でもあった)、家でじっと待っているのが辛くて、半年ぶりの「撮りテツ」に出撃している。ちょうど、春のダイヤ改正で山陰から日中の普通客車列車がなくなることが報知された時期だった。

 受験日程を決める頃、注意されたのが「偏差値の小さな差にはこだわらず、学風をも調べてから決めるように」ということ。それを聞いたときは半信半疑であった。
 中学高校なら「職員室の空気の違い」がそのまま「校風の違い」になるのは理解できる。しかし、大学は基本的に学生の自治である筈で、4年で構成員が全部入れ替わるのに「学風の差」なんて生ずる余地があるの?
 その疑問は、受験日程を終えたときには氷解していた。
 忘れがたいのが「関西学院大学(法学部)」の試験。難しいのではなく『なんか厭な方向から突いてくるなあ』という問題が並んでいて(特に英語)、筆者は一生かかっても合格できません、きっと。で、正反対が関西大学(特に国語)。なんか変な問題だなぁ、でもこれじゃ間違いようがないのでは、という気がしてならなかった(出題傾向による点数の振れ幅が大きいタイプなのである)。
 なるほど、と変に納得したものだ。あれだけ出題傾向が違えば入学してくる学生の傾向も違ってくる。それが学風の違いになる訳だ。
 過去問題集、いわゆる"赤本"は、少なくとも関西学院大学のは買ってなかったらしい。

 3年R組には、例の「トランプ仲間」以外に、もう1人内部進学者がいた。彼はC組(旧方針下位クラス)出身ということで「経歴」が異なる。向こうから「俺も入れてくれよ」と言ってきたら歓迎するつもりだったけれど、同じ顔ぶれで試験の点取り競争をやっていた手前、遊びだけ加えてくれ(試験結果は非公開で)とは言い出しにくかったのだろうと察する(成績を公開されてもこちらが気まずい)。
 一度、"大富豪ゲーム"中に背後から訝るような声が聞こえたことがある。
「Sって清中出身らしいな。なんであの輪に入れて貰えないんやろ」
「よく知らんけど、嫌われてるんやろ」
(清中はセイチュウと読み、一部ではキセイチュウという蔑称に派生していたとか。我々も蔭ではそう呼ばれていたか)
 まさか「そんなんじゃなくて、アイツだけ1年C組っていう下位クラスの出身で……」と説明する訳にもいかず、背中がムズムズしたのを覚えている。彼だけは進学先も把握していない。点取り競争で初め接戦を演じ、最終盤でこちらが頭一つ抜け出して勝ったつもりでいた好敵手君(受験する大学構内を一緒に"下見"して回ったっけ)は、R谷大に合格したのを蹴って浪人、翌年、筆者には手が届かなかった同志社大学法学部へ行ってしまった。これまたなかなかの逆転劇なり。
 負け惜しみになるかもしれないけれど、同志社(法学部)は関学のように出題傾向がいやらし過ぎて手も足も出ないというのではなく、特に英語で「ワー、長文読解がほかより1ページくらい長い、時間が足りん」と感じたのが印象に残っている。父親に「どうしても同志社へ行きたいなら浪人してもいいぞ」と念押しされたものの、そこまでのこだわりはなかった。
「社会学部しか通らなかったのなら考えるけど、法学部に通ったから関大で不満はないよ」と答えたのは強がりで、社会学部だけ合格していても現役進学を選んだろう。
 業者試験の志望校欄によく記入していた「同志社大学文学部新聞学科」は、射程圏内のところと日程がぶつかったため受験しなかったようだ。

 今はなき実家(自室)から撮った雪景色(もちろん受験時のものではない)。
おおっ、雪が積もってる……アッ、ちょうどカメラにフィルム入ってるぞ、
というのでシャッターを切ったもの。現在は耕作地(夏場は水田の二毛作)
が消滅し戸建て住宅がぎっしり。目立つ現存家屋のみ加工しておいた。

●制服切断事件
 ……というのは半分冗談で、担任から受けていた「受験結果が出揃ったら直接報告に来い」という指示に従い、登校準備をしようとしたところ、制服がない。
「お母さん! 俺の制服は?」
「制服? もう卒業したでしょうが」
「受験結果を報告しに来いと言われてる。制服じゃなきゃマズいと思う」
「ありゃぁ。丈夫そうな生地やから転用しようと思って……。なんとか修繕する」
 渡された詰襟は背中の大部分に裏地がなく、一旦切断したのを何十センチか縫い合わせた形跡があった。
 まぁ、持物検査だの服装検査だのはもう受けることがないから問題なし。ただ、背中の一部だけやたら通気性がよくて違和感があったのを妙にはっきり覚えている。
 何ヶ月ぶりかで職員室に入ってみると、既に次年度切替が終わったようで担任どころか他教科の担当さえ見当たらず、手が空いてそうなのは英会話……は中学校だけだ、高校での科目名が思い出せない……の外国人教師だけ。たどたどしい日本語で「ミンナ引越シチャッタカラネェ。3年生ノ先生方ハ……確カ……南館職員室」と教えられ、歩道橋を渡ったところに建つ「南館」へ向かった。
 南館職員室の前まで来たときちょうどN教諭が出てきて、顔を見るなり、
「おお! 今日は久しぶりにいい報告や!」と、在学中には見たことがないような満面の笑顔で迎えてくれた。3年R組は散々の結果だったようである。
 要するに受験結果はとうに向こうも知っている訳で、なんのための報告だったのか分からない。過去に何らかの伝達ミスでも起きたのだろうか。

 蛇足ながら、我々と入れ替わりに入学してきた世代から、詰襟と制帽をやめて現在のブレザーに改められた。狭い運動場が3,300人の詰襟で埋め尽くされる朝礼は「むさ苦しさ最大級」だったものだ。

●管理教育の終わりを告げる儀式?
 高校へは内部進学ということで「事務手続」の類はほとんど必要なかった筈である。
 中学に入るときは当然ながら親任せ、で、今回は、
「もう大学生なんやから手続きは自分でやりなさいよ」
「分かってるよ、言われなくたって(苛)」
 多くの級友が同じようなやりとりをしたに違いない。大学から送られてきた郵便物を調べ、提出が必要な「添付書類」をチェックしていくと『卒業証明書』なるものが記されていた。
 そんな書類、貰った記憶がない。開けないままになっている卒業証書の筒を調べてみても、入っていない。そこで、生徒手帳に書いてある代表電話にかけ、
「今年卒業した者ですが、卒業証明書というのはどこで入手できるのでしょうか」と訊いてみたら、ほぼ即答で、
「3月■日の■時から校内で配布します。私服で構いません」
 校則のやかましい管理教育ということは、指示を待ってそれに従っていれば万事順調に進んでいく。それはもう終わり、という儀式のようなものだったらしい。
 上本町の駅まで来たらいくつも馴染みの顔が見え「俺も同じことを考えた」などと言い合いながら学校へ着くと、各教室で待機するように、という掲示も。
 教室が私服で埋まるのは不思議な光景だった。

 

 キリの良い大団円ということで、開館25周年記念連載はこれにて終了します。ただし勢いに乗って大学篇もほぼ完成。いずれ"作者のひとりごと臨時復活運転"として掲載の予定です。

 

 関西大学に進んでみると、知り合った相手は半分以上が浪人経験ありという状況で、とてもじゃないが「受験は初めから関関同立だけを相手にし、何の苦労もしていない」とは言えず、数学で落第して精鋭クラスからその他大勢クラスに落とされた、という苦労話ばかりしていた。優等生化以後の詳細を公表するのは初めてである。
 若い頃の話をしたがるのは老化現象の一つだけれど、3度の入院と手術を経て「こんど何か起きたらお陀仏だろうな」という気持ちになり、長姉にも「滅多にないような経験をしてるんだから詳しく文章化しておいたら」と勧められたので実行に移した。
 そんなとき、年賀状だけで繋がっていた関西大学鉄道研の後輩が他界。年賀状が完成した直後に喪中ハガキかよ、と差出人を見たら、ん? 後輩の奥方?
 夫 ●弘が……の本文を見て「うわっ」と声が出た。
 次はオレかなぁ。