2006年3月14日、職場でひと仕事片付けたその足で大阪駅へ向かい「スーパーはくと9号」に乗った。
大阪を午後3時過ぎに発って、日の暮れ切らないうちに鳥取へ着くとは、便利になったものだと思う。智頭急行の開通する以前から何度となく山陰を旅してきて、その頃の時間感覚がまだ抜けていない。山陽本線を快走する列車の窓から、傾き始めた西陽を浴びるいかにも乾いた風景を眺めていると、これから大雪警報が解除されたばかりの鳥取へ向かうというのが嘘のような気がしてくる。なにしろ、山陽本線上郡から因美線智頭まで40分しかかからない。姫路から津山を通って智頭に着くまで、急行「みささ」に乗ったときは何時間かかったっけ? と遠い過去に思いを馳せたくなる。
果たしてどっちがいいのか分からないけれど……なんて文明批評的(?)なことを考えていたら、智頭急行線に入って5分ほどで列車の速度が落ち、駅か信号場か分からないところで停車したまま動かなくなった。
山陰方面は雪のためかなりダイヤが乱れているとのこと。
参ったな、と眉を寄せる。職場経由での旅立ちであり、目的も絞られているから時刻表を持ってきていない。何より、被写体たる上り「出雲」が運休してしまったら何をしに行くのか分からなくなる。
隣席は通路を挟んで座ったカップルの片方で、これは遅延停車中でなくともあまり有難くない。
仕方がないから、旅の動機たる寝台特急「出雲」の追憶を辿る。
寝台利用は上り2回、下り1回、山陰本線内の「ヒルネ」利用が下りのみ2回と、乗車経験はさほど多くない。それよりも、列車に向かってシャッターを切った回数の方がはるかに多い。
最初は中学を卒業する3月であった。友達同士では初めての泊まりがけ旅行で、しかも国鉄最後の月に当たっていた。雨の中、長い客車を従えたディーゼル機関車の姿をファインダーの中に捕らえた興奮はもとより、道中、地方都市の「夜の早さ」を知らずに晩飯を買い損ね、普通列車として走る気動車特急「あさしお」末端区間の車内でカップ麺に洗面所のお湯を注いだ思い出も忘れ難い。コンビニなど大都市にしかなかった時代の話である。
その後は餘部、中山口付近、日野川、斐伊川、小田−田儀……、筆者の鉄道撮影は単独行が大半なのに、不思議と「出雲」の撮影に関しては鉄道仲間が一緒にいたことが多い。ふと気づけば、同行者の誰もが「鉄道写真撮影」から足を洗っている!
最初の撮影から19年、そんな長い時間がいつのまに過ぎたのだろう。
窓の外を、上り「スーパーはくと」が駆け抜け、列車は10分ばかり遅れて動きだした。
トンネルを抜けるとそこは……という具合にはならずに、まず北斜面だけに現れた雪が北上するにつれて耕作地の表面を覆い、露出する地面が徐々に狭くなって、智頭まで来ると銀世界であった。上り列車が軒並み遅れてくるので、こちらの遅れも増し、用瀬で普通列車の到着を待ったときには20分に達した。
もっとも、しばしば冬の北国を旅しているせいか、さほどの大雪には見えない。暖冬続きで雪への備えがおろそかになったのか、合理化で人手が少なくなったのか、まず鉄道だった除雪の優先順位が道路に移ったのか、多分そのどれもが重なっているのだろう、昔に比べ鉄道は雪に弱くなったようである。
鳥取に着いて案内表示を見ると、上り「出雲」はとりあえず運転されるらしい。
列車が遅れた上に、駅前ホテルのフロントにはチェックインの手続きを待つ客が7人いて、時間の余裕が全くなくなった。荷物の一部をベッドの上に放り出し、カメラには予め望遠ズームを装着し、フロントに鍵を預けて駅構内で食事を済ませると、浜坂行普通列車の発車時刻まで10分ほどしか残っていなかった。
以前、同じ行程で撮影に向かったときは帰宅途中の高校生が大勢乗っていて岩美まで座れなかったが、もう春休みなのか、あるいは期末試験中なのか、列車は思いのほか空いていた。
網棚にカメラ・バッグが見え、窓際にレシーバーを立てて鉄道無線をチェックしているのがおり、目当ての撮影地は大丈夫かと心配になる。なにしろ、夜景なので三脚は必需品だから日中より場所を取り、定員は多くて3名、撮影者の装備次第では2名と思われる。
とはいえ、廃止が正式に決まった後に積雪のあった1月9日、海を背景に撮影できる数少ない場所へ行ったにもかかわらず、列車の編成が全部は入らず機関車のヘッドマークが写らない後追いの構図になるせいか、他の撮影者は皆無であった。
因美線から来る列車の到着を待って発車が遅れ、福部でも下り列車を待ってさらに遅延が拡大し、浜坂には十数分遅れて着いた。
この調子では「出雲」も定刻では来ないだろう。被写体がいつ現れるか分からないという、疲れる撮影になりそうだ。
天候は回復に向かうという予報を見て慌ただしく出発したのに、まだ雪がちらほら舞っている。舌打ちをしてから駅を出たが、駅前広場から道路へ出るところで振り返ってみると、後から撮影者が来る様子はない。
目的地の跨線橋(人道のみ)は雪に覆われていた。足跡も僅かで、登るだけでひと苦労である。幸いにも、というべきか案の定というべきか、他に撮影者はおらず、最良の位置に三脚を据えることが出来た。駅の1番線には鳥取から乗ってきた2両編成、2番線には既にエンジンを止めた3両編成の気動車がおり、それらを撮っているらしいフラッシュがちかちか光る。駅ホームで「出雲」を狙うのなら、時刻の早い倉吉でいいのでは? と疑問に思うけれど、彼らにも何か言い分があるに違いない。
乗ってきた気動車が鳥取へ向けて引き返し、所定の時刻が過ぎても「出雲」は現れない。そのうちに、下り浜坂止の普通列車が3番線に着いた。これも翌朝まで「留置」になる筈なので、慌てて構図を修正する。
雪は止みそうで止まず、傘が手放せない。
ようやく踏切警報機が鳴った。安堵と緊張を同時に覚えつつ、左手にレリーズを握る。廃止を目前に控え、足元を通過した上り「出雲」は寝台車11両のフル編成であった。夜更けの浜坂駅周辺は暗く、さすがのα-7も測光不能表示を出している。露光時間は30秒以上必要ということになり、遅れている列車の停車時間は最小限だろうから、1コマで精一杯に違いない。
と……右側から強い風が吹いてきた。急いで傘をほとんど真横に向ける。ファインダー内で列車の停止を確認してレリーズを押し込み、α-7の売り物「ナヴィゲーション・ディスプレイ」で経過時間を計っていたら、遊んでいるストラップが風で暴れだした。
レリーズと一緒に持っておけばよかった、というのは後悔先に立たずの典型で、左手のレリーズも右手の傘も絶対に離せないから打つ手がない。ストラップが三脚にぶつかってカチカチ音を立てる……。
焦点距離は約230mm、僅かな振動もブレに直結する。三脚が軽量型なのは体力面の制約からやむを得ない。前回この場所に立ったときは、露光中に小雨が降りだし、慌ててタオルをカメラに載せたその振動でブレてしまった。
失敗を半ば覚悟して、それでも45秒間の露光後にシャッターを閉じ、焦点距離を180mm程度まで変えて、今度はストラップを一緒に持った左手で再度レリーズを押し込んだら、その数秒後に余命4日の列車は動き出した。
「山陰本線20年の旅」に掲載した写真はこのコマで、初めのコマは無事にブレることなくフィルムに収まったのだが、はっきりした目当てはないものの一応未発表のまま残してある。
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