*Kai-chanの鉄道旅情写真館・異次元のページ*

心に残るこの1枚・第13回

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

ブラームス:交響曲第1番ほか

(1988年東京公演ライヴ録音/独グラモフォン)

 

 筆者はカラヤンという指揮者があまり好きではない。
 こう書き出すと、どうしても注釈が必要になってくる。アッバードがつまらないとか、アーノンクールが嫌いだとかいうのなら、すぐ本題に入っていけるのだけれど、やはりカラヤンというのは特殊な存在なのである。否、特殊な存在になってしまっている。
 若きカラヤンがナチス党員になったのが「半強制」だったのか「自らの意志」だったのかについて、筆者は関心がない。本人の述べた「そなんことは私の芸術に関係がない」という言葉に賛同する。一方、帝王と呼ばれるまでに登り詰める過程での「策略」的な逸話にも興味がない。ストコフスキーだってフルトヴェングラーだって同じようなものだろう。
 では、何が「好きでない」かといえば、
「世間一般で騒がれている、あるいは騒がれていたほど、多くの名演を遺した指揮者だとは思えない」というに尽きる。
 彼の指揮した演奏には奇妙な、そして困った特徴がある。
 第一印象が実に素晴らしいのである。
 FMでカラヤンの指揮を聴く。お、これはいいや! とばかりに、同じ曲のCDを買ってくる。放送がライヴで、ディスクがスタジオ録音という場合が多いから、演奏にあちこち差異がある。つまり、再び「第一印象」とならざるを得ず、これまたすこぶるよろしい。
 ところが、である。何週間か、ときには何カ月か経ってそのCDを聴くと「アレッ??」ということになる。「これって、こんなにつまらない演奏だったっけ……」
 体調や気分のせいかな? と初めは思ったが、3回目に聴いても4回目を聴いてもやっぱりつまらない。お蔭で、10代の頃には無駄な出費を繰り返した。
 ここで連想するのは、指揮者界の異端児であったセルジウ・チェリビダッケのことである。もし、チェリではなくカラヤンが「演奏の一回性」に固執し一切の録音を拒否していたならば、現世的な成功は望めなくとも、芸術的名声はさらに高くなっていたのではないだろうか……。
 仮に、チェリビダッケにおける現況と同様、死後に放送用録音がボツボツCD化されて世に現れ、「アレッ??」と感じる人が大勢出て来たとしても、
「そうか! だから彼は録音を拒否し続けたのだ!」
 ということになって、名声が傷つく心配は微塵もない。……と書いてから、FM放送のエア・チェック(死語?)を繰り返し聴いても結果は同じだから、この空想には無理があることに気がついた。もしチェリビダッケがある程度の公式録音を遺していたとしても、「隠れた芸術的名声」に傷が入ることがあり得ないのと同じである。
 妄想はこのくらいにして、ある曲の個人的「名盤」をいくつか挙げるとき、カラヤンが上位に入ってくることが皆無かというと、さすがにそんなことはない。
 思いつくままに並べてみる。

 ベートーヴェン:交響曲第9番のいくつか(最後の録音は感心しない)
 ブラームス:交響曲第1番(1987年・最後の録音に限る)
 ブラームス:交響曲第4番(1988年・最後の録音に限る)
 シベリウス:組曲「クオレマ」から「悲しいワルツ」

 実は他にも何点か浮かんだのだが「オネゲル:交響曲第3番」なんていうのを挙げてみても、手元の比較対象が他に1点しかないのではアテにならない。カラヤンのCDを今でもよく聴く曲、というのは「他の録音が少ないので本当の名演にまだ接していない」というケースが多いことを改めて知らされた。
 上記スタジオ録音の翌年に当たるのだが、1988年にカラヤンは(最後の)来日公演で「ブラ1」を演奏している。
 白状すると、このときのFM放送を収録したカセット・テープは聴き過ぎたせいか早々と劣化していまい、MDを導入した際にもデジタル化は諦めた。同じくらい聴いた筈の「カルロス・クライバー東京公演(1986)」はなんとか鑑賞に耐える音質でMD化出来た(その後、海賊版CDも入手)ので、代替わりしたカセット・デッキとテープの相性も良くなかったらしい。
 2008年になってこの「カラヤン最後の来日公演」がCD化されると聞いて、少しばかり心配になった。かつて繰り返し聴いたとはいえ、十数年ぶりの"再会"である。
 エッ? この演奏って……などという悲劇が起きないだろうか。
 幸い、これは杞憂に終わった。
 リ・マスタリングにより「音質が良すぎて」なんとなく違和感を覚えるものの、「アンチ・カラヤンの推すカラヤン名演奏」として迷うことなく挙げられる1枚である。

 蛇足。筆者と同世代かそれ以上の方であれば大勢が覚えておいでだろうが、カラヤン最後の来日公演では、ベルリンPOが珍しい「大事故」を起こしている。ムソルグスキー(ラヴェル編):「展覧会の絵」で、冒頭のソロ・トランペットが思いきり音を外したのだ。始まった途端のことだから、やり直した方が良かったのではないかと思ったほどである。今回のCD化に際し、さすがにこの箇所は「補修」したらしい(どこから音を持って来たのだろう?)。ネット上でもこの点はやはり話題になっているようだ。
 なお、筆者はブラームスしか買っていない。「悲愴」「展覧会」のライヴ盤はチェリビダッケ/ミュンヘンPOがあれば他はいらない……あ、いけない、これは大嫌いな評論家Uが得意とする書き方だ。

 

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