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心に残るこの1枚・第15回
パーヴォ・ベルグルント指揮 シベリウス:クレルヴォ交響曲 (1985年録音/EMI) |
この曲、シベリウスを初めて聴くという方には絶対にお薦めしない。「シベリウス? ああ、『フィンランディア』と『カレリア組曲』なら知ってる」という方にもやっぱりお薦めしない。
一般的な交響曲全集(つまり第1~7番)を持っている人にならやっとお薦めできるけれど、
「作品番号7の初期作品で、かつシベリウスの交響曲として最大規模ですよ」
と念を押しておかねばならない。
交響曲一作でCD1枚を独占してしまう、またはそれ以上の規模……といえばブルックナーとマーラーが代名詞みたいなものながら、ブルックナーが最初に書いた"習作"ヘ短調(WAB99)は演奏時間40分台の「標準サイズ交響曲」だし、マーラーでさえ「第1番」は120分テープの片面に入る規模(齢が分かる書き方!)である。シベリウスはというと、最後の第7番が単一楽章で25分前後! 要するにあまり巨大な交響曲を書くような個性の持主ではなかったのである。
好き嫌いで言えば「好きな曲」、ときどき妙に聴きたくなる音楽ではあるのだけれど、いかんせん「密度」が足りなくて、半ば無意識のうちに途中から雑誌とかパンフレットを手に「ながら鑑賞」をやっている自分に気付く。ブルックナーではまず起こり得ない現象である。
曲は全5楽章。それぞれにタイトルが付いていて 1:序章 2:若き日のクレルヴォ 3:クレルヴォと妹 4:戦地に赴くクレルヴォ 5:クレルヴォの死 という構成。第3・5楽章には男声合唱が入り、第3楽章にはさらにクレルヴォと妹役の独唱が加わる。これはオペラ的なものではなくて、後年のシベリウスが多くの作品を手がけることになる「劇付随音楽」を先取りした印象が強い。
交響曲全集に入れて貰えないのはそのせいか、あるいは晩年のシベリウスが「自分が死ぬまでは演奏しないでくれ」などと価値を認めないようなことを言っていたからなのか。
序章の冒頭からして「ただならぬ」悲壮感、抗い難い命運といった雰囲気の漂う声楽導入の前後など、魅力的な箇所がそこここに溢れてはいるのだが……
題材は北欧の民族的叙事詩「カレワラ」から取られたもので、歌詞もフィンランド語(困)。
リフレインというのかどうか詩歌には疎いので分からないけれど、合唱はすべての節が同じ歌詞で始まる。
Kullervo, Kallervon poika. sinisukka äijön lapsi.
何度も何度も繰り返し歌われる部分くらい意味を知りたくなるのが人情で、和訳を試みたものの……表記輸入盤ディスクの英訳は次のようなもの。
Kullervo, Kallervo's offspring. with the very bluest stockings.
offspring って何だ? と英和辞書を引いたら「子、息子(詩語)」だそうで、続きを訳す気にさえならなかった。「対訳」ではなく「訳詩」というスタンスで来られると筆者の英語力では歯が立たない。Blue stocking がアメリカの俗語で「馬鹿」という意味だとどこかで聞いた記憶があるけれど、これとは関係なさそうだし……。
その後、FM放送でこの曲が取り上げられた際の簡単な解説によれば、
「かなり奔放な性質のクレルヴォ、故郷に近い森でたいそう美しい女性と出会い、多少の無理強いを伴いつつ仲が行くところまで行ってから身の上話など聞いたところ、なんと相手は生き別れになっていた実の妹!」
というのが歌詞のおおざっぱな内容らしい。第4楽章の「戦地に赴くクレルヴォ」というのは絶望のあまりということで理解できるのだが、第5楽章のコーダに出てくるほとんど絶叫のような合唱が『かくして英雄の生涯は終わった』という意味らしいのがよく分からない。この主人公、どこがどう英雄なの?
最近になって不意に「長年の疑問」を思い出し、インターネット上を探してみたら、あった! 詳細な解説を載せているサイト!
主人公クレルヴォは怪力の持主、内戦……というか部族闘争(?)で獅子奮迅の活躍をなした英雄ではあるも、戦乱が治まってみると万事不器用で役に立たない。で、せめて町まで行って税金を払って来い、と命ぜられ、その帰りに出会って「ひっかけた」のが(しかも声をかけた3人目の女だと)母親からは戦乱で死んだと聞かされていた妹、というのが前半の筋立て。妹の側から見た場合に、兄や母の現況についてどのように認識している設定なのかは不明。
それから sinisukka äijön lapsi. (very bluest stockings) はそのまま「青い靴下」という訳がサイト上に載っていて、深い意味は謎のままである。
「戦地に赴くクレルヴォ~クレルヴォの死」という流れは日本人からすると特攻戦死みたいな印象を持ちがちなのだが、実際の話はもっとややこしくて、妹の自殺(これは第3楽章「クレルヴォと妹」の中で描かれるものの、悲しげな木管の和音だけなので予備知識がないと分からない)→部族闘争に再び参戦(戦乱の経緯がどうもよく分からない)→生き延びて帰郷してみると既に母も家もなく、妹を(そうとは知らず)誘惑した森まで行って自殺、という結末。悲劇的ではあるも、今ひとつピンとこないのは筆者だけだろうか? 生きて帰らないつもりで戦いに赴き、しかし持ち前の怪力で立ちはだかる敵をはからずも残らず倒してしまった……ということか。
結論その1。本当の理解は「カレワラ」のクレルヴォ物語を知っていないと無理。
結論その2。作曲者の才能ゆえに「歌詞が理解できなくとも」聴き手の心に響く音楽が結果的に出来てしまった。
「カレワラ」がフィンランドの人々にとってどのような位置づけのものなのか知識はないけれども、あまり適切ではない譬えを持ち出すなら『桃から生まれた桃太郎』と聞けば「犬・猿・雉と鬼退治」と誰でも知っている……という類のもので、「クレルヴォ、カレルヴォの子」という出だしで物語の基盤が分かって貰えるという前提で書かれたとすれば頷ける。とはいえ、その辺りを十分考慮しても、後年の極めて緻密な作風と比べると特に偶数楽章がやはり冗長だと思う。
シベリウスの交響曲をご存知ない方は、せめて偶数番号3曲 -第2・4・6番- を聴いて作風の変遷を掴んでから「クレルヴォ」に進むことをお薦めします。おっとっと、もちろん第1・3・5・7番もいい曲ですよ(笑)。 <2017年8月掲載>
参考サイト:「シベリウス:クレルヴォの歌詞と音楽」
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