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心に残るこの1枚・第8回
セルジウ・チェリビダッケ指揮 ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」 1878/80年版第2稿 (1988年録音/EMI) |
1980年代、芥川也寸志・なかにし礼の両氏が活躍していた頃の「N響アワー」で、次のようなやりとりが放送されたことがある。
なかにし 「音楽を聴いて泣いたりしたことありません? いいなぁ……って」
芥川 「昔ね」
なかにし 「今の若い人は違うんですよ。何かこう、圧倒される喜びなんですよね」
このときの番組タイトルは「ブルックナー・アラカルト」。ちょうど、ブルックナーやマーラーの人気が急速に高まり、「マニアックな作曲家」の位置づけを脱した頃のことで、ひとつ前の世代にはある種の反発心があったものと思われる。
音楽を聴いて不意に涙が出たという経験は筆者にもあるが、最も確率が高いのはマーラーの交響曲第2番(もちろん特定の演奏に限られる)。他にも何曲か挙げられるけれど、古典派以前の音楽ではまずあり得ない。ちょっと変わったところでは、吉松隆の「カムイチカプ交響曲」終楽章でも、聴くときの気分次第では目頭が熱くなる。少々安っぽい面のある音楽なので我ながら癪に障るのだが、実際そうなのだから仕方がない。
古い世代は「涙の質が違う」などと主張するだろうか。
筆者はそう思わない。音楽的感動を種類分けする方が滑稽である。
ベートーヴェンやモーツァルトではなぜ駄目なのかということになると、上の世代とは育った環境が違う、という結論になろうか。特にベートーヴェンなどは、19世紀から今日まであまりにも頻繁に演奏され過ぎて、もうどんな演奏をしても誰かの真似になるという意味で「賞味期限切れ」だと筆者は考えているのだが。
マーラーに関してだけ考えるなら、「異質感動説」にも頷ける。「2番」の終楽章など、大編成のオーケストラが阿鼻叫喚の咆哮を浴びせた後、一転して静寂が訪れ、それもタムタム(大太鼓よりさらに低音の打楽器)のトレモロだけを伴奏に管楽器が代わるがわる「裸」の旋律を奏で、ときどき舞台外(可能ならば高い位置)から金管楽器の音が降ってきたり、ついにはそれも途絶えて今度は無伴奏の合唱が始まり、その後も合唱の中から女声の独唱がすうっと浮かびあがってきたり、ルフト・パウゼといって全ての楽器が瞬時沈黙したりと、恐ろしく手の込んだ音響世界が展開し、とどめの一撃にパイプ・オルガンが鳴り響く。
これを要するに「押し付けがましい感動」であることは否定出来ない。
けれども、ブルックナーの場合はちょっと違うような気がする。マーラーと違って「編入楽器」は交響曲第8番のハープが挙げられる程度。シンバルは全作品の中でも数えるほどしか鳴らず、全曲の中で1度だけ鳴るシンバルが「ブルックナーの意志で書かれたものか否か」いまだに結論が出ていなかったりする。ホルンが8本だったり、うち4本がワグナー・テューバと持ち替えだったりして、確かに編成は大きいが、響き自体にはストイックなものさえ感じられる。「ブルックナーの響きは本質的な意味でバロックの延長線にある」というのが定説になっているほどなのだから。
もっとも「3番」や「6番」辺りだと、聴いていて涙が出てくるようなことは普遍的に考えてまずないだろう。やはり7番以降、個人的に「7番」があまり好きではない筆者の場合は、過去の音楽体験を振り返っても「8番」と「9番」しか記憶にない。
ひとつだけ、例外となる演奏が「チェリビダッケの4番」なのである。
爽やか系(?)の演奏が多い、そのまったく同じ音楽なのに、基調テンポを極端に遅くした上で絶妙のアンサンブルを聴かされると様相が一変するのだから不思議である。何より終楽章のコーダ。弦楽器の3連符-3連符をアクセント浸けにし、金管にかき消されないよう最後まで延々と強調する独特の解釈には「参りました」の一言。
この演奏を知るまでは、ブルックナー全作品の中でも「4番」というと軽いイメージを持っていたのだが、チェリビダッケはそれをひっくり返してしまった。実際に聴いているときだけならまだしも、不意にあの「コーダ」が脳裏に浮かんできて、それだけで涙をこらえなければならず、ちょっと困った1枚である。
参考までに、ベーム/ウィーンPO盤とチェリビダッケ/ミュンヘンPO盤の演奏タイムを紹介しておく。終楽章の遅さに要注目。
第1楽章 | 第2楽章 | 第3楽章 | 第4楽章 | |
ベーム | 20'08'' | 15'28'' | 11'02'' | 21'03'' |
チェリビダッケ | 21'56'' | 17'34'' | 11'03'' | 27'52'' |
(ちなみに、某批評家はチェリビダッケの解釈について『ひとりよがりで必然性が感じられない』と「ひとりよがり」の評価をくだしているが、この批評家が手放しで賛美している「8番」の某指揮者による演奏には、マーラーじゃあるまいし、と言いたくなるルフト・パウゼがあったり、根拠不明の楽譜改変があったりするのだから不思議である)
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