*Kai-chanの鉄道旅情写真館・異次元のページ* |
心に残るこの1枚・第9回
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 ショスタコーヴィチ:交響曲第11番「1905年」 (1992年録音/テルデック) |
当たり前のことと言えばそれまでなのだが、演奏の善し悪しというのは「曲」を知っていないと判断がつかない。初めて聴く曲のCDを買って、第一印象が今一つという場合に「この曲、もっと面白い演奏に出来そうなものなのに」と感じることもあるけれど、「曲がつまらないのか、演奏がつまらないのか、どっちだろ?」という方が多い。だから、生演奏を聴きにいくとき、それも値の張る海外の超一流楽団の場合は、"お目当ての曲"以外に知らない曲目が設定されていると、なるべくCDを探して「予習」をしておくことにしている。
超一流、とやや大仰な形容をしたのには理由があって、デフレ経済の中、どこ吹く風と価格が上がり続けているのは世界中でも数えるほどの楽団であり、超のつかない一流どころは下落傾向にある。
有難いこと、と言えなくもない。しかし、どうも「安いからいいや」とばかりに、未知の曲を予習してこない客が増える傾向にあって、これは好ましくない。演奏会の印象を最後に決定づけるのは聴衆の水準だと筆者は思っている。
ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団。
指揮者も楽団も疑いなく一流ながら、超をつけられるかどうかは意見の分かれる辺りだろう。切符の値段も、決して「安く」はなかったが手頃なものだった。
曲目は、シベリウスの交響曲第7番とブルックナーの交響曲第5番。演奏時間は前者が20分台、後者が70分以上で、どちらが「メイン」かは明らかな上に、知名度にもかなり差がある。筆者はシベリウスも大好きなので当然(!)よく知っている曲なのだけれども、それだけに心配であった。
なにしろ単一楽章のうえに派手な"コーダ"はない。予習をしてこなかった客がきちんと対応してくれるかどうか……。
そして当日。
シベリウスは曲の前半でやや団員が集中力に欠ける感はあったものの、途中から調子が出てきて、後半はなかなか感動的であった。こういうときは、事前の心配など忘れて、演奏後は勝手に手が動く。
周囲からも自然な形で拍手が湧き起こり、ようやく心配事を思い出して、よかったと安堵した後から妙なことになった。拍手に「クレッシェンド」がかかってこないのである。ブルックナーだけを目当てにして「予習」をサボッた人たちは、曲が終わったのかどうか自信を持てないらしい。拍手は先細りになり、途絶えてしまうのではないかとさえ案じられた。
-止めるな、止めるな、頑張れ!
腹の底で妙な激励をしながら必死に手を動かしていたら、指揮者の動きを見てやっと拍手の音量が上がってきた。
どうにかサマになって、やれやれ、と胸をなでおろしたものである。
一方、すわ大失敗をしでかしたか、と冷や汗をかいたのが、ワレリー・ゲルギエフ指揮PMFオーケストラ。オーディションを通過した若い奏者による臨時編成の楽団で、曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(独奏ニコライ・ズナイダー)とショスタコーヴィチの交響曲第11番。
楽団の実力が未知数なのであまり事前の「期待」はしていなかったのだけれど、蓋を開けてみるとなかなかのものであった。演奏の始まる前、チャイコフスキーのときはリラックス・ムードだったのが、ショスタコーヴィチの前はぴりぴりした緊張感が客席まで伝わってきて、それも面白かった。
金管セクションが体力に任せて鳴らし過ぎの感なきにしもあらずではあったものの、ことにショスタコーヴィチともなると、鳴るべきところで鳴らないよりはずっと良い。特別好きな作曲家ではないのだが、交響曲第11番は愛聴しており、予習するまでもなかったから、第4楽章最後のテューブラー・ベルが鳴って絶壁のようなコーダの残響が消え、「ヨシッ、お見事っ」とばかりに手を打ち鳴らしたところ、パチン! と大きな音がした。
大きな音がしたのは、周囲が静かだからである。
「チェリビダッケのブル8」よろしく、多くの聴衆が拍手を忘れるくらい圧倒されているとしたら、ブチコワシをしでかしたことになる。
しかし、そこまでの演奏だったかなあ、と首を傾げつつ、適当な間を開けてから、慎重にPPからクレッシェンドをかけて(?)拍手をし直したところ、やっぱり周囲は妙に静か。なんだ、単なる予習不足かよ、と真相に気がついて安堵と落胆を一緒に感じ、周りを気にせず拍手を送ることにした。
実を言うと、これには伏線がある。
演奏会の二日前だったと思うが、NHKの「ニュース10」で、札幌でのPMFオーケストラ野外コンサートが取り上げられ、ショスタコーヴィチの最後のところが放映されたのである。そして札幌では、ごく普通にワッと拍手が始まっていた。
大阪の聴衆は札幌以下か、と寂しい思いを禁じ得ない。
ただし、札幌の演奏がニュースで流れなかったら、もう少し慎重であったかもしれない。というのは、ロストロポーヴィチ/ナショナルSO盤では「絶壁」で終わらずに、オーケストラだけを止めて鐘の残響がカ~~ンと残るのである。音色からして恐らくテューブラー・ベルではなく、グロッケンを用いているらしい。交響曲第11番は手元に2枚しかないもので、どちらが主流なのかは分からない。
鐘の残響だけで曲が締めくくられたのでは、チャコフスキーの『悲愴』やブルックナーの「9番」のように聴衆は対応するほかになくなる。
このロストロポーヴィチ盤、基調テンポがかなり遅く、しかも弱音部が極端に小さく収録されているので少々扱いにくい。特に第2楽章の「血の日曜日」は遅過ぎて緊張感をそぐ結果となっており、金管が数小節に渡って音を外しているのではないかとも疑われる(あるいはスコアがそうなっているのかもしれないが)。
それでも、最後の「カ~~ン」は効果抜群。ほとんどそれだけを目当てに時々プレーヤーにかけて、もちろん全曲を通して聴いている。
このページに対するご意見・ご感想はこちら
バックナンバー保管庫へ戻る際はタブまたはウィンドウを閉じて下さい