入院日記

(2018年)10月5日 □○△◇大学医学部附属病院脳神経外科外来にて
 様子がおかしい。
 否、第三者的には何の不思議もないことだけれど、不吉なのである。あまりにも不吉過ぎる。受付の事務員が、電話で「入院申込書」がどうとか言っている。
 一時間ばかり前、医師にはこう言われた。
「せっかく(紹介状を持って)大学病院に来られたのだから、経過観察と言って帰って貰うのも何ですし、血液検査とCTをやっておきましょうか」
 診察室前に戻ってきた頃には、もう外来診察は終わりという雰囲気、受付番号が出たら"中待合"に入れという表示器もほぼ空欄だ。ということは、内部で患者に関する話といえば筆者のことに決まっている。
 果たして……名前を呼ばれて二度目の診察室に入ったら、
「血液検査の結果がかなりマズイことになってるンですワ。このまま即、入院です。早急に 手術 も必要です」
「……」(入院は幼いころの小児喘息検査入院以来、手術は初体験)
 かくして、夜食にしようと買ってあった『表示価格から20%引き』の菓子パンを冷蔵庫に残したまま(←それ以外は保存が利くという意味ね)、筆者は帰れなくなった……

10月9日 手術前日
 早急に手術といいながら日付か飛んでいるのは週末(しかも連休)を挟んだためで、やはり最優先で手術予定が組まれたらしい。
 この日は造影剤使用のCTとMRI、麻酔科受診と盛りだくさん。造影剤を使うときは昼飯抜きである。朝に看護婦から聞いた手順では、午前中のうちに手術前のシャワー浴、CTとMRIは午後の予定で、夕刻になる麻酔科受診との間に地下の売店で間食を買って……ということだったのに、何かの手違いでシャワー浴の最中にMRI担当者が「造影剤使用の同意書」を持って病室に来たらしい。もうMRIに呼ばれてるから今すぐ、と急かされ、肌も乾ききらぬうちに地下1階に行ったら「同意書の署名がまだだから、病室へ一度戻ってくれ」と空振り。
 その「同意書」こそすぐに係員が持ってきたものの、検査本体の呼び出しがいつまで経っても来ない。
 そうしているうちに、最後の筈の麻酔科受診が先に来て、昼飯抜き間食なしのまま麻酔科からMRI、その後すぐにCTと検査室を回らされ、病室に戻ったときには夕食の時間が近かった。
 CT検査室ではちょっとした医療ミスまで発生。"寝台"がスキャナの中へ動き出したと思ったら、造影剤の針が刺さっている右腕の辺りからズルズルっと何か引きずられる感触、さらにもっと腕の近くで"解放感"が。次の瞬間、
 アカンアカンアカンアカン! 停めて停めて!
 どこか場違いな、声質も内容も「関西のオバチャン」的な叫び声。
 検査が始まる直前、係員が長々と鳩首協議していたようなのに、意思疎通が不十分で造影剤の準備をした担当者が「頭の向き」を勘違いしたらしい(頭の向きが一定でないとは知らなかった)。で、想定と逆方向に引っ張られて針が抜けちゃったとか。お蔭で初めからやり直し、検査が済むまでにひどく時間がかかった(ミスした担当者が"関西のオバチャン"に叱られてた)。
 手術直前の不安より疲労が勝って、睡眠剤の力も借りはしたけれどぐっすり眠れたから、結果オーライというべきなのかもしれないけれども。

10月10日 手術第一回当日
 手術は二回セットで受けさせられた。まず第一回目。
 静止状態から動こうとすると高確率で肩から腕に激痛が走るというのが身体症状で、ともかく普通に歩けはするというのに、病室から手術室へはベッド上で仰向けのまま運ばれる。天井しか見えないから手術室だかなんだか分からなかったのは幸か不幸か。蛇足ながら、ベッドに横たわった状態で乗るエレベーターは非常に気持ち悪かった。
 手術室には想像以上に多くのスタッフがおり、テキパキと準備が進められる。なにしろ全身麻酔だから、浅い眠りで内容も朧な夢を5~6秒間見たような気がしているうちに4時間が経過していた。手術が失敗していたら安楽死である……というのは、昔、誰かのエッセイで読んだ形容(遠藤周作だったような)。
 手術直後は"HCU"に翌朝まで収容される。ICU=集中治療室、というのはドラマや映画でもお馴染みだが、こちらはHigh Care Unit の略で、一般病室より患者一人当たりの看護スタッフが多い、ということらしい。ハイケアなんていうと何やら手厚く看護して貰えそうに響くけれども、実際は血中酸素量から心電図から常時監視していて異変があれば即対応できる……というだけのことで、何もなければ管やら線やらで文字通りベッドに縛り付けられて仰臥しているのみ(術後6時間は横向きになることも不可)。
 血圧は腕帯を巻いたまま一時間おきに自動測定(忘れかかった頃に腕をギューッ)、一室に何人入れられているのかは不明ながら、データの変動を知らせるアラーム、看護スタッフの足音、何かとぐずるお年寄りの患者をたしなめる声なとが夜通し続き、一睡も出来なかった。Honmani Curushiku Uttoushii ところである(かなり無理アリ)。
 もっとも、夜半を過ぎると大きなイビキも複数。羨ましい。

10月11日~12日 インターバル
 事前に渡された出来合いの印刷物は手術一回で完結することが前提。だから翌日以降の流れも分からず、普通なら歩行訓練を始めて自力でトイレに行けるようになればすぐ外して貰える導尿管も付けたまま。点滴から食事(お粥ナリ)に切り替わって二日間、便意が来たらナースコールという指示があっただけで、実際どうするんだよ? とひどく不安な気持ちで過ごす。
 12日の夜は手術または全身麻酔の後遺症で発熱、一時は体温が38度を越えて苦しんだものの、意外にもこれは「入院中の苦痛ワースト3」に入らないのであった。

10月13日 おナカの再起動 排泄の話題がお嫌いな方は飛ばして下され
 朝食後、下腹部に張りと軽い痛みが来て、どうやらお出ましらしい、と車椅子で多目的トイレへ運んで貰ったが、やれやれ排泄だと安堵しかかったのも束の間、固形物が出かかった状態で"フリーズ"してしまった。導尿管をつけたままではうまく腹に力が入らないのである。当然、目の前にあるナースコールを押す。返答は……
「ウォシユレットで洗って下さい。病室で便を柔らかくするお薬を使いましょう」
「(ジャーっ)だ……駄目です。便秘気味なので水ではどうにもなりません」
「でしたら、その状態で病室へ戻って貰うことになります」
「(そんな……)もう少し頑張ってみます」
「またお知らせ願います」
 うぬーっ。ふむっ。おりゃーっ(床へ汗がポタポタ)。
 で、で、出たぁ(歓喜)。
 まるひと月を越えた入院期間中、他の病室から伝わってくるやり取りを聞いていても、全身麻酔で強制シャットダウン状態になった消化器系の"再起動"は皆さん難関のようである。
 午後になって、ようやく医師から「そろそろ導尿管を外せ」という指示があった由。それでも(こっそり試してみたら)問題なく立ち上がれるのに、引き続きトイレへ行きたくなったらナースコール、車椅子で運搬という情けないお達し。
(導尿管を外すときは結構痛い……{付けるときは全身麻酔で何も分からない})

10月17日 続・おナカの再起動
 14日から16日まで、排尿の直後にニュルッという妙な感触でごく僅かな便通があるというスッキリしない状況が続くも、この日、ようやく普通ゥゥの排泄。キ・モ・チ・イイっ!
 そして午後、術後一週間経ったのでトイレへは自力で歩いて行ってよい、という許可が出た。
 裏を返せば、自分で歩けるのに他のフロアで検査を受けるときは車椅子。病院内にある売店へ行くことも出来ず、ストレスの溜まる日々が二回目の手術まで続いた。

10月23日 手術第二回目
 施術内容としてはこちらが"本番"で、時間も長いらしい。
 今度は車椅子で運ばれたので前方がしっかり見える。ドラマで見たのと比べ、随分と広く感じる手術室。大病院だから「第○手術室」なんていう掲示もあり、おそらく簡単な手術だともっと狭いところで行うのだろう。
 変な麻酔科医。
「Kai-chanさん / はい / 何でもありません。呼んだだけです」
 問診の合間にこれが何度も挟まる。最初は「なんじゃこいつ」と思ったけれど、全身麻酔が効いて返事が来なくなるのを見越したものらしい。
 一回目よりも少し長く10秒くらいの感じで夢うつつ。手術中にBプランへ切り替えた(←カーリングの見過ぎ)とかで、実際は7時間を超えた由。前回はHCUへの移動中に意識が戻ったが、今度はまだ手術室内で、初めに聞こえたのは"返事"を確認した麻酔科医の、
「OK! 管を抜きます」
 という声、そして喉からズルズルッと何か引き抜かれる(麻酔は抜けきっていないため痛みナシ)感触。
 事前に説明を受けてはいたものの、今回は施術部位に到達する過程で筋肉を切開するため術後は相当の痛みが出る。尖った金属を押し付けられている感じの痛み。HCUに入るなり(ベッドに横たわった状態で乗るエレベーターはやっぱり気持ち悪い)、
「痛みはありませんか? / 術部がかなり痛いです / 最大10としてどのくらいの痛みですか? / 6から8くらいは来てます / 点滴に痛み止めを追加しましょう」
 血管内に直接とあって、内服薬と違い即効性がある。何分後くらいかは見当もつかないものの、
「痛みはどうですか? / 痛み止めのお蔭で鎮まりました / 最大10として2か3くらいに? / いえ、0です / 点滴でゼロになるのなら上等です」
 上等です、という言い方、一回目の手術後にも聞いた。そのときは、
「気分はどうですか? / さすがに声が出にくいです。喉に異物感があって / 手術直後にそれだけ喋れたら上等です」というもの。
 自分ではモガモガと不明瞭な話し方しかできないと感じたのに、立ち合いに来てくれた家族によれば「ちょっと"テンポ"がゆっくりなだけで、ほぼ普段通りやったよ」とのこと。不思議な現象なり。

~10月24日 謎の呼吸困難と人間心理の怪
 一度目はよっぽど「特に手間のかかる患者」と居合わせたのか、二度目のHCUは比較的静かであった。しかし、その分だけ時間の経過は遅かった。部屋は16階、建物の近くに線路があるので、室内で物音がしなくなると微かに列車の走行音が聞こえる。入室後ずいぶんと経ったように感じ「初電かな。もうすぐ朝かな」と思いきや、直後に隣のベッドで、
「今、10時半です。11時から○○の点滴を始めます」
 という声。まだ終電にもなっていなかったのである。
 長い長い長い夜が明け、室内が朝の光で満たされた頃、異変が起こった。
 息が出来ない。いや、出来ているのに息苦しい。形容が難しいけれども、吸う、吐く、吸う、吐く、ひとつひとつが手動運転の感覚。これ、マズいのではないかと、前回のHCUでは一度も使わなかったナースコールを押して息苦しさを訴える。
 顔を出した看護婦いわく、
「データは正常というより良好です。心配ありません」何ともにこやかな表情を見せてから引っ込んだ。
 心配ないって言われても苦しいんだってば
 しばらくすると、別の医師だか看護婦だかが聴診器を当ててくれた。
「うーん、胸の音を聞く限りでは肺の動きも正常なんですけどねぇ」
 こちらはやや困惑の表情で、なぜかそれを見て随分と安堵したのを覚えている(人間心理の怪)。見える位置に時計はないし、謎の呼吸困難がどれくらい続いたか正確に知りようがない。でも、時々「今、何時です」という声が他のベッドの方で聞こえ、そこから類推すると40分から1時間程度は続いたようである。
 午前10時半にHCUから元の病室へ戻るとの説明アリ。
「本来は身体をキレイに拭いて(貸出の術衣から私物の寝間着へ)着替えてからお戻り頂くんですけど、かなりシンドそうなので元の病室へ戻った後にしますね」
 しまった、余計なことを言うんじゃなかった、などと考えてから、初めて呼吸がかなり"平常自動運転"へ近づいていることに気が付いた。

10月25日 そんな話は聞いてねえっ
 手術規模は2度目の方が大きいのに、身体につながれたすべての"管と線"は術後まる一日で除去する(1度目は導尿管以外でもまる2日かかった)というので待ち遠しかった。朝食後、主治医が顔を出し、
「この後、ドレーン(手術痕から出ている管)を外します。細い管が2本入っているので、そこをそれぞれ2針、縫うことになります」

 ……えっ? ……えっ? ……えっ?
 やがて医師と看護婦が合わせて4人ばかり登場。
「麻酔ナシで縫いますからちょっと痛いですよ。頑張って下さい」
 そんな話、聞いてないぞ! 麻酔科の待合室でモニターに流してた『手術は痛いというのは昔の話です』という動画は何 だったんだ?
 頑張れと言われるまでもない。頑張るしかないだろ。頑張るよ。耐えるよ。

 

 でも…… 痛てェ。 痛てェ! さらにこれをもう1度(泣)。

「終わりましたぁ。お疲れさまでしたぁ」という声に、ふウーッとひとつ息を吐いて、
「結構、痛かったです。こたえました」と言ったら、
「いやぁ、我慢強いですなぁ、最中に痛い痛いとおっしゃる方が多いんですけど」だと。
 大きな声でも出して手元が狂ったら大変だと、こちらは必死になっていたのに(怒)。

 入院中の苦しかったことワースト2が呼吸困難と麻酔ナシ4針なのは確実ながら、ワースト1がどちらだったかは後に振り返っても微妙なところである。ワースト3はベンピ騒動だな、やっぱり。

結論。病院とは、昔も今も痛いことをされる場所であることに変わりはない。

 

10月26~28日 手術痕の痛み
 縫われた後の"表皮の痛み"が一段落すると、入れ替わりに、一時は軽減していた"もっと奥の痛み"がなぜかぶり返してきた。痛み止めの内服薬を出して貰い、しのぐ他になし。6時間以上の間隔を空けて服め、という指示があり、1日4回で24時間カバー出来る計算ながら「痛み止めが切れた状態でどのくらい痛むか」を把握しておきたくて1日2回に留める。ところが、その「痛み」が一向に消えない。時々顔を出す主治医に訊いてみても、
「人によって違いますからねぇ」
「おおまかな目安だけでも」ともう一押ししてみたら、
「まぁ一週間が目安ですね」
 28日になっても痛み方に変化ナシ。一週間の目安がかえって不安を誘う……。

10月29日 術後一週間を前に
 夕食後しばらくすると、夜勤の看護婦が「夜間担当の○○です」という挨拶を兼ねて問診に現れる。
「痛みはどうですか?」
 ここでようやく気が付いた。
「アッ。昼に服んだ痛み止めがもう切れてる筈なのに随分とラクになってます! 昨晩と比べて劇的に良くなりました!」
 翌30日で術後一週間。まさか自己暗示であはるまい。不思議なことが起こるものだ。

 


懐かしいような思い出したくないような、病室からの眺め。

 

 痺れが出ている右手のリハビリとアタマの体操を兼ねて綴っていた日記メモはまだ続くけれども、この後は読んで面白そうな展開もないから(二度目の手術後も軽い発熱があり、"おナカ再起動"の苦労もゼロではなかったが、一度目に比べればものの数ではなかったため省略)、この辺で終わりにしようと思う。管と線から解放されるとすぐ普通に立って歩けたため、特にリハビリと呼べる医療行為は受けなかった。

 

(おまけ)11月2日 地震
 16時45分頃、眩暈のような不快感を覚え、ナースコールした方がいいかな、と思ったとき、眩暈の自覚は"揺れ"に変じ、窓のブラインドが音を立て始めたので地震と分かった。
 震源は和歌山県沖。大阪市内は震度1だった筈だが、なにしろ12階だから。
 テレビをつけると既に各地の震度記録が入り始めていたのに、それから大きなゆっくりした揺れがきた。右に左にフワーッ、フワーッ、一分間近く続いたと思う。これがウワサの長周期地震動?
 その後、通常の用件で顔を出した看護婦に、
「揺れましたね」と言ってみたら、
「この建物、揺れるように出来てるんですよ」という返事である。
 何ですか、それは(謎)。

 

バックナンバー目録へ戻る際はタブまたはウィンドウを閉じて下さい