健在! 宮脇俊三 (続編)

 題材がない。それ以上にやる気がない。そんな理由で「作者のひとりごと」コーナーを正式に閉鎖してしまったら、たちまち題材が現れた。
 世の中とはそういうものではある。
 新潮社による"発掘"も一段落し、生前に交友があった訳でもない人達の「宮脇俊三を語る」企画にはそろそろ食傷気味になっていたのだが、今度は河出書房がなんと『幻の初期連載作品』を見つけだし、単行本未収録の小品と合わせて"新たな"随筆集が出版された。この『終着駅』と題された初期連載は、宮脇氏ご自身がかかわった著作目録(JTB『旅』誌)からも抜け落ちていたというから大発見である。
 といっても、今回の「題材」は新刊単行本とは直接関係がない。
 本棚が満杯に近くなっていて、新たに一冊買うごとにアレをこっちへ、コレをあっちへ、と整理に難儀しているため、今回、大量にある宮脇俊三氏の著作を少し移動させる必要が生じた。ついでに『最長片道切符の旅・取材ノート』を開き、そのまたついでに『最長片道切符の旅』を開いて、初めの何章かを読み返したところで、今まで気づかなかった疑問点にぶつかったのである。

 ルートの決定に時間を費やしたうえ、若干の所用があったりして、要するにぐすぐずしているうちに、せっかく手にした一世一代の暇が残りすくなくなり(後略)……

 この箇所、果たして事実をそのまま記したものだろうか?
 本文でごく簡単にしか触れられていない「1978年10月2日・武蔵野線新松戸-西船橋間14.3km開通」という出来事、これは作品の成立にとってたいへん重大なことではないだろうか。もっとはっきり書けば、最長片道切符という企画が決まった時点で、旅立ちは10月2日以降とせざるを得なかったのではないか……。
 もし、それ以前に出発すれば、「最長片道ルート」が旅の途中で変わってしまったり、旅を終えて執筆に取り掛かっている最中に変わってしまったりして、結局『最長片道切符の旅』という本が店頭に並んだ頃、その内容は「最長」より6.5km短く、東京近辺のルートが大きく違ったものになってしまう。
 長らく編集者であった宮脇氏が、これを意識しなかったとは考えにくい。本の売れ行きにも必ず影響が出てくる筈だ。
 今までそれに気づかなかったのは、刊行後かなりの時間が経ってから文庫で読んだという事情よりも、やはり作品としての完成度の高さ、高度に洗練された文章ゆえであろう。
 取材ノートが公になって、思いのほか『最長片道切符の旅』には脚色・戯画化された箇所の多いことに気づかされた、という話は以前にこのコーナーで取り上げたが、今度はもっと根本的な問題である。
 『暇ができたので心ゆくまで汽車に乗ろう(作品本文)』という発想から「最長片道切符」という結論に至るまでかなりの紆余曲折があったことは、過去の作品にも、今回初めて単行本に収録された『最長片道切符の話』にも取り上げられていて、それ自体を疑う余地はない。けれども、ぐずぐずしているうちに秋になって日が短くなって、と面白おかしい言い回しで書かれた作品の裏には「こんな時期に新線が開通してしまう、困ったな」という、動きたくても動けない時期があったように思われて仕方がない。それも『あれが売れなかったらちょっとまずかったんですけれど、幸いかなり急ピッチで売れたんで…(JTB『旅』宮脇俊三特集号から)』という、作家として微妙な時期の作品である。
 以下はJTB『旅』誌インタビュー「元音源CD」の一節(宮脇氏自身がいちばん思い入れが強い作品は何か)。
『「時刻表2万キロ」と「時刻表昭和史」ですね。読者は割と「最長片道切符の旅」って書いてくれてるけど……』
 取材ノートにはこんな記述も。
「2万キロ」は書くためではない。今度のは書くためだ
"一筆書き"の長所と短所  短所 - 阿呆らしいの一語に尽く
 "長所"のところにまで「自分を納得させるため」という注記が付けられている背後には、果たしてどんな思いがおありだったのだろう。そういえば「取材ノート」では、風邪で旅を中断したことについて何も書かれていない。再開後の記述『いよいよ山場の強行軍にとりかかる(取材ノート)』と『ようやく東京の迷路から脱出したぞ、と嬉しくなる(作品本文)』はずいぶん対照的だが、両者の間にあったものは何だろうか。
 勝手な推測ではあるが、後半、日程を圧縮して強行軍になったのは『いったんやると決めたことはやろう(作品本文)』という精神主義よりも、なるたけ出版時期を早めて「最長片道ルート」が「現在形」である時期を最大限に確保したいという、編集者視点での思考が働いたのではないか、という気がする。執筆、推敲の時間は絶対に削れないから、旅(取材)を引き伸ばす訳にはいかない、と……。今でこそ『最長片道切符の旅』は揺ぎない代表作の地位を得ているけれども、出版当時は「宮脇俊三」の名前だけでも本が売れる段階には達していなかったのだから(結果的に、1979年10月の初版刊行から1981年10月の石勝線開通に伴う「最長片道ルート」の変転まで、まる2年が確保されることになった)。
 新線開通のお蔭で出発が先延ばしになり、風邪のお蔭で後半は急ぎ足になったとすれば、取材としてはともかく「旅」の質としては、宮脇氏ご自身にとって案外と不本意なものだったかも知れない。
 この調子で書けば書くほど、無関係な人間の「宮脇俊三を語る」に読者が食傷するだろうから、最後にいくらかは参考になりそうな「情報」を提供しておこうと思う。
 というのは、昨年、『最長片道切符の旅』当時の交通公社版大型時刻表を入手し、色んなことが判明したからである。
 まずは旅程第7日、もし機関車故障など起こらず「ゆうづる13号」が定刻に盛岡へ着いていたら……。

   盛 岡 7:11→10:40大 館 普通927D(好摩まで東北本線539レに併結)
   大 館10:46→12:05弘 前 普通1823レ 秋田発弘前行
   弘 前12:26→16:42東能代 普通1734D
   東能代17:21→18:35秋 田 普通446レ 大館発秋田行

 それから、旅程第33日、志布志で寝坊せずに予定通り早朝に出発していたら……。

   志布志 6:24→ 9:09国 分 普通625D~鹿屋から快速1625D「大隅」山川行
   国 分 9:24→10:35都 城 普通556D 山川発都城行
   都 城12:07→13:45吉 松 普通625D
   吉 松14:05→15:14人 吉 普通836レ
   人 吉16:11→17:39八 代 普通840レ
   八 代18:14→21:17川 内 普通939M 熊本発西鹿児島行 グリーン車連結
  (八 代18:24→20:38川 内 特急「有明15号」 食堂車営業)

 特に後者は読者としても痛恨の極みで、肥薩線の矢岳越え区間と夕暮れの球磨川沿いを「普通客車列車」で通る予定だったとは! この乗車記は是非とも読んでみたかった。
 都城での接続が悪く、ここをどうなさるおつもりだったのかも気になるところ。日豊本線上りの後続列車はなんと寝台特急「富士」で、国分には停まらないから、作品本文にある「国分から日当山温泉往復」は不可能。国分のひとつ先、霧島神宮で「富士」(門司までヒルネ設定あり)に乗り継ぐと待ち時間が分散するが、そこまでマニアックなことはなさらず、素直に都城で城下町を観光し早めの昼食と考えるのが妥当だろう(これを意識して読み返せば、作品本文の都城に関する記述はなかなかに思わせぶりだ)。
 なお、八代から川内まで(川内まで行く予定だったのは「取材ノート」に明記)は普通列車か特急利用か、微妙な時刻なので両案併記とした。
 実は、1977年の時刻表と『時刻表2万キロ』を照合したこともあり、第3章で上り「有明」の遅延にぶつかった際にも、吉松発人吉行普通客車列車に乗り損ねていることが分かった。『2万キロ』以前の記録は『時刻表昭和史』など僅かしかないので、矢岳越え客車列車はご経験済みだった可能性も高いが、やはり読者としては悔やまれるところである。

 

 

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