今回と次回は、マーラー作「交響曲第7番」で第5楽章に突入したかのような内容となります。もっと分かり易く書けば、成功話や自慢話がお嫌いな方にはお薦めできません。

遠い記憶から(高校篇2)

 高校2年生になった直後のことは、自分でも不思議なくらいこまごまとしたことまで覚えている。
 最初にあてがわれたのが、教室出入口に近い最前列(端っこではなく二つくらい内側)の席。数学の一回目の授業が終わった後、教室を出かかったたA教諭は足を止め、こちらをジロリと一瞥して言った。
「ちゃんと勉強しろよ」
 落第・追試験対象者というのは当然知っていただろう。文系科目では旧精鋭クラスでも平均点以上だった、ということまで知っていたかどうかは分からない。
 それから一週間くらい経った頃には"異変"を自覚していた。
--数学の授業、ちゃんと理解出来ているような気がするんだが……
 試みに、副教材として配られている問題集を開いてみたら、おっ! 分かる! 解ける! 数学の問題に取り組むのって、こんなに楽しいものだったんだ(落伍していなければ。実際「算数」の頃もそうだった)。それから毎日、家に帰ると復習として自主的に問題集へ取り組んだ。
 喜ばしい出来事は続いた。
 ある週末の授業で、A教諭が告げた。
「宿題! 問題集の何番から何番まで! 提出は月曜日」
 内心で大喜びした。大部分を既に解き終わっているのだから。
 ただ、月曜日になって少しばかり厄介なことに気が付いた。夜、いつものように問題集を開いたら、解答を記すべきノートがない。宿題として提出してしまったから当然である。深く考えずに一度は新しいノートを開いたものの、いずれ続きも宿題にされる、そのとき2冊を提出することになったらまたノートがなくなるではないか。2冊に分かれていると、自分でやらず誰かに解いてもらってるのではと疑念を持たれる可能性もある。
 実を言うと、1年生の夏休み辺りから、どうせ受験科目として戦力外の数学が文系科目の勉強時間を食いつぶす状況を打開したくて、というより少しでも楽になりたくて、数学の宿題は5~10問にひとつくらいの割で、古いノートから無関係の解答を書き写す誤魔化し作戦を取っていた。今は真面目にやってるのに疑われてはかなわない。
 火曜日の授業でもノートは返して貰えなかったことから、意を決して職員室に乗り込み、事情を説明して先に返して貰えないかと頼んでみた。
「ヨシ、先に見よう」そう言いつつ、A教諭はいくらか疑わしそうな表情を浮かべた。コイツ、のっけから誤魔化しにかかる気か、と考えたのであろう。ノートを開いてランダムに選び出した解答をいくつかジーッと見てから、
「うん、きちんとやってるな」やや声を和らげて、検印をポンと押し、ノートを返してくれた。
 そうした経緯の後に迎えた中間試験で、なんと数学でもクラス平均点を越えた! 答案を返して貰うとき、A教諭は、
「ちゃんと出来るやん。なんで去年は落第なんかしたん?」
 初日のジロリとは別人のような表情で言った。なんで、と訊かれても好きで落第した訳ではないから、ちょっと妙な笑みを浮かべて「いやぁ、センセの授業はよく分かりますから」と答えるほかなかった。
 この「2年生最初の定期試験」では、全科目合計点でクラス内5位という数字が出た。
 中学時代は常に136人中何位、下位ひとクラスが切り離された高校1年生では90人中何位で示されていたが、その他大勢クラスでは各学級ごとの数字になった。だから比較のしようもないのだけれど、この席次を見て目が醒めたというか、闘志に火が着いたのは間違いなかった。
--その他大勢に落とされて腐ってる場合じゃない、上に4人いるんだ、こいつらを抜いてやる。
 モチベーションの違い(当時は今のようにメディアで頻繁に使われる言葉じゃなかったが)とはこのことである。90人中80位台に腰を落ち着けてしまった状況では、いくら「次の試験では」と意気込んだところで負け犬の遠吠えでしかない。しかし、5位にいて上の4人を抜く、という目標には現実味があった。
 ちょっと待った、お前、落第したのになんで普通に2年生の定期試験を受けてるの? ……という疑問を抱いた読み手がどの程度いるのか見当がつかない。落第者の追試験は思いのほか実施が遅く、中間試験の後だった。休み時間に担任が顔を出して「追試験の日程が決まったぞ」とまっ先に筆者の名を呼び「何月何日の放課後、何年何組の教室!」
 途端に周囲から「追試験? お前が??」と驚きの声が上がり、それが何やら嬉しかったものである。
 その追試験は「旧方針におけるその他大勢クラスでの落第生」と同室、当然同じ問題。苦もなく答案を仕上げて念のため"検算"をしていたら、監督の教師が「あいつ、まだごちゃごちゃ計算しとる」というように心配そうに近寄ってきてしばらく斜め後ろに立ち「何だ、検算としるのか」と納得して戻っていくという状態で、無事「仮進級」から正式な2年生へ昇格。ちなみに、追試験でも落第すると、もう一度「再追試験」の機会が与えられ、それでも駄目なら留年……実際には自主退学勧告という流れだったようである。
 書いているうちに、2年生時のちょっと妙な出来事をもうひとつ思い出した。少し話が前後するけれど、中間試験の10日くらい前のことだった。終礼を始める前に担任が、
「これから読み上げる生徒、放課後、職員室の運動場側出入口付近に集合!」
 生徒の「選択基準」はすぐ分かった。中学から内部進学してきた連中全部である。何だろう? 今頃何かの配布物でもあるのか、と思ったら、告げられたのは「秘密補習授業の開始」であった。完全6年一貫教育の方針を途中で撤回したのを、生徒のせいにしてその後は何もしないという訳にもいかず……ということらしい。もともと火曜と金曜は7限目まである学校だから、おそらく月・水・木だったろう。何が"秘密"かというと、あまり他の生徒に詳しいことを話さないように、という軽い緘口令が敷かれたこと。親から「不公平」との苦情が来ることを恐れたためか。
 イヤだなぁ、自由に使える時間が減るし、自主的に家で復習をやる方がゼッタイ効果あるって……と苛々していたら、中間試験で結果が公表された直後、補習授業の教室で、
「今から読み上げる者、補習授業は必要ないので次回から出て来なくてよろしい」
 この時点で筆者は無事に解放された。期末試験後にも追加で除外された生徒があり、このときに友人グループからは補習対象者がいなくなったため、以降の状況は知らない。
 その期末試験では公約(?)通りクラス1位を獲得している(この辺は完全な自慢話になってしまうのでさらりと流す)。
 この時期、担任には少々目の色が変わっているように見えたらしく、朝礼前後に自然発生する「ランダムな2者面談」でちょっとした"忠告"を受けた。
「オマエ、家に帰った後は勉強ばかりしてるんじゃないのか?」
「えっ? とんでもないです。遊んでばかりいるので親からしょっちゅう叱られてます」
「家での勉強時間はどのくらい?」
「長くても2時間半、2時間を切っちまう日もあります」
「へえ、そうなのか」担任のG教諭はやや意外そうな表情になった。「オレは、オマエに今以上に勉強しろとは言わん。今2時間かかっている同じ内容、1時間半で出来るように努力をしろ」
 どうやら「大学受験は人生のゴールじゃない。目の前の点取り競争にそうムキになるな」ということらしかった。いかにも現代国語の教師らしい発想である。
 今から振り返ると、世間一般の高校生から見れば「それ、遊んでばかりいると言えるのか」という状態だったかもしれない。ちょうど北杜夫の初期純文学に心酔して古い新潮文庫を覚えるくらい繰り返し読んだ時期、ブラームスに傾倒して「(交響曲の)1番と4番は重々しいベーム(後に推薦盤はジュリーニに移行)、2番と3番は逆に軽快なショルティがいい」などと言っていた時期である(ブルックナーには"手を出し始めた"ばかり、シベリウスは未知の状態)。そして、ダイヤ改正がある度に紀勢本線白浜-新宮間のダイヤグラムを方眼紙に書き、そこに夏の臨時列車を書き加えるのが楽しくて仕方がなかった。
 つまり「国語と音楽と算数(さすがに数学とは呼べまい)の勉強してるだけじゃん」という見方も出来るだろう。大学時代によく呆れられた「基本的に娯楽に興味がない、芸能関係には極端に無知無関心」というのはこの時期に確立されたようだ。これは父親譲りでもあるのだが、父は絵画や彫刻に造詣が深い反面、芸術音楽はまったく駄目だったのが筆者と正反対だった。
 いくら担任に「もっと先の人生を見ろ」と示唆されても、進学校で点取り競争が上手くいっているとそっちに意識が向くのは仕方がない。1学期最後の授業で、各教師から「夏休みの宿題」が示されたとき、特に英語が「それじゃ1年A組時代の半分しかない、精鋭クラスの奴らに置いて行かれる」と青ざめ、担当のO教諭に、何か教材を紹介してくれ、と詰め寄った(イヤな生徒だったかなぁ、教師の側から見ると)。
 そこで名が挙がった2年生向け問題集、昨年(特殊なカリキュラムゆえに)配られて既に手元にあった。初めの何章かは授業中に使われていたので「続きを全部やってきます」と公言。
 それでも、この夏は前年と比べれば「こんなにラクでいいの?」という状態。数学の問題ひとつひとつにてこずって得意科目の勉強時間が食いつぶされる悪循環がなくなり、歯車が逆に回り始めたという感が強かった。そもそも、独自メニューで一部科目を増強しても全体量は前年より少ないのだから。6年完全一貫教育の方針撤回、その他大勢クラスへ転落というのは、実に幸運なことだった。

 

 夏休みに古座川橋梁にて(第二の我が家を前進基地に)。優等生化後初の長い休み、さぞのびやか
な気持ちで鉄道撮影を楽しんだろうと思われるかもしれない。しかし実際には、なにやら夢でも見
ていたような気がして、もう落ちこぼれじゃない、それどころか学級内1位を取った直後だという
実感が少しもなく、ただ妙にフワフワした気分だった。

 

 2学期の初日、英語の授業が終わるとO教諭に教壇のところへ呼びつけられた。
「宿題をもっと出せと言ったろう、ノートくらい持って来い」
「ハーイ。明日持ってきまーす」
 翌日、しばらくそのノートを眺めてから「ほう。ホントにやったのか」だと。
 この「精鋭クラス並」を意識した学習量、予想以上に効果があり、成績が最も良かったのがこの年の2学期である。別にその後は油断したり怠けたりした訳でもないのだけれど、やっぱり3年生になるとみんな尻に火がついて勉強し始める、短期詰め込みに強いタイプが追い上げてくる……ということだったのだろう。
 業者試験の英語で精鋭クラスを含む文系内約580人中ヒトケタ席次を取ったのもこの時期だ。ただ。別のページに記したとおり、具体的に何位だったか思い出せない。3位だったような6位だったような(落ちこぼれ時代に記録した数学の1034人中1031位は記憶が鮮明なのに)……
 おそらく3位だったのではないか、と思わせる出来事は覚えている。件の試験結果が発表された直後、1年A組から順当に新方針文系精鋭クラスの2年K組へ進んだ友人に、廊下で呼び止められたのだ。
「おい、このあいだの××模試、英語で■位取ったのって、お前か?」
「えっ? ……何で知ってるん??」
「やっぱりお前か。英語のセンセが機嫌悪くてな。R組の奴に■位持っていかれてるぞ……って。R組と聞いてピンときた」
 確か、成績表が配られる少し前に、担任から「オマエ、英語■位やぞ」と直に知らされた。やたら嬉しそうなG教諭の声を微かに覚えている。
 どうも、この■に入るのは6よりも"銅メダル相当"の3が自然な気がする。教師の手元には少なくとも上位陣の成績順名簿が行ったのだろう。誰だコイツ、R組? と精鋭クラス担当の教師はビックリしたらしい。愉快痛快である。
 2年生の2学期から業者試験が文系と理系で別々となっており、6位という数字はもしかすると「これまでの学年集計だと3位じゃない」という仮想修正値として記憶に残っているのかもしれない。
 この学期、定期試験は2回とも2位だった。
 やがて受験科目となる世界史が伸び悩み……といっても平均点は越えており落ちこぼれには程遠いのだが、その世界史が「超得意科目」である生徒に続けて1位をもっていかれた。おそらく僅差だったろう。国語と英語で少しずつリードするのに、世界史で一気に逆転されてしまうのである。悔しかったけれど、なんだか「次の試験で0点取るなよ」と担任に言われたのがちょうど1年前とは信じられないほどの変身ぶりであった。筆者が「数学の落第がなければ精鋭クラス入り確実」といういわくつきだったのと同様、向こうも只者ではなかったらしい。当人は語りたがらなかったけれども、1年生時の同級生から聞いたところでは、クラス配分の根拠となる「業者試験」の日に一度病気欠席しており、0点扱いではないにせよ実力以下の点数で計算されたため精鋭クラスに入れなかったのではないか、こんなところにいるような奴じゃない、というのである。変テコなコンビで首位争いをしていた訳だ。
 落ちこぼれが解消したとはいえ、業者試験での数学は500位台が定位置(前年の定位置は900位台だから400人抜きと考えればよくやったとは思う)、文系のみの集計となってからは200位台で、文系科目とはやっぱり差があり過ぎた。
 3年生への進級時には、生徒の自由意志で「国公立併願コース」と「私立専願コース」に分かれる(精鋭クラスが自動的に「国公立コース」となる)。進路相談のとき、G教諭は、
「数学もまだ間に合う、まだ伸びる。国公立併願へ行ったらどうや」
 国語の教師にそう言われてもねえ(笑)。小テストの用紙に「まだ分からんところあるのか。何を考えているのか」と乱暴な文字が添えられたのを忘れることなど出来やしない。
 このとき、"結果の平等"が大好きなNHK左翼思想宣伝担当が聞いたら憤死しそうなやりとりをしている。
「確認したいのですが、私立先願コースだと、どうしても学力底辺層の生徒が集まりますよねえ」
「それは、その通りや」
「文系科目についても国公立併願の方が高いレベルの授業が行われるというのなら、無理してでも併願コースに行きますが」
「その心配はしなくないい。私立先願でもきちんと上位陣を引っ張り上げる。いちばん下を見て授業を行うことはない」
「それなら、私立先願で文系科目に絞って勝負をかけます」
 今から考えれば当然で、進学校の看板を掲げておきながら下に合わせて授業をしたらえらいことになる。とはいえ、我ながら物凄い質問をしたものだ。
 そう言えば、連続1位をかっさらったミスター世界史君がかなり進路に悩んでいた。
「お前なら国公立で通用するやろ」と言ったら相手がぶんむくれたので覚えている。
「なんやねん、それ。理系科目の点数、お前かて俺とそう変わらんやないか」
「おいおい」とこちらは慌て気味に答えた。「俺は数学で落第してるんやぞ。数学は積み上げやもん、俺の今の成績なんて砂上の楼閣だって」
「あっ、そうか。うーん」
 彼は悩んだ末、国公立併願へ進んだ。そこで交流が途絶えて大学受験の結果は知らない。廊下で声をかけてきた精鋭クラス君は現役で神戸大法学部に進むことになる。

 おっと。3学期の定期試験は5位に逆戻りだったのを追記。頭の中が「北海道長大4線問題」でいっぱいとなり、勉強が手に着かなかった(爆笑)。英語(リーダー)で初めて筆者を上回ったミスター世界史君が答案用紙を手に「Kai-chanに勝ったぁ」と小躍りし、悔しさの中に「オレ、目標とされる側になったんだ」という若干の誇らしさを感じたのが印象に残っている。それに「怠けると簡単に落伍するぞ」といういい教訓にもなった。
 話がまた前後するけれど、受験とのからみで「修学旅行」は2年生の秋に実施。飛行機で沖縄というまったく魅力のない(北国志向)行先だったところへ、うまい具合に風邪気味だったので不参加。ドクター・ストップがかかったのや同じように体調不良だった生徒が教室に集められ、午前中のみ自習することで欠席日数には加算されず。
 分割払いでかなりの金額を積み立てていた旅費は全額返還となった。
「これはお前のだから好きに使っていい。未成年なので現金では渡せないが、何が欲しい?」と父親に問われ、
「じゃあ、もう一台カメラ!」
 ただ、時代がちょうどAF一眼へ切り替わる時期。一眼レフに慣れてからプログラムAEはほとんど使っておらず、手持ちのレンズが共用出来る(ミノルタ)X-500かX-600が欲しかったのだけれど、既に市場から消えていた。カメラ屋さんは、
「もう一台X-700という手もありですよ。AF機なら最新機種α-7700iがお薦め」
 同一機種だと、2台目の購入目的である「ネガ・リバーサル併用」時に混乱しそうだし、カタログを見れば見るほど α-7700iは余計な機能ばかり満載という気がして食指が動かなかった。
 結局、発売から時間が経って安くなっているα-9000を選択(α-8700iは発売告知直前)。標準ズームAF35~70mmF4とセットでも若干予算に余裕があったため、単焦点の「AF50mmF1.7」と「AF135mmF2.8」を加えた。135mmというのは肉眼で一点を見つめたときの感覚に近く、軽くて明るいこの単焦点レンズは重宝したけれど、なぜか早々に姿を消し特殊構造のSTF135mmに取って替えられたのは不可解である。
 ちなみに、担任のG教諭は沖縄に着いてから風邪でダウン、ホテルに缶詰めだったそうな。三者面談のときだったか、
「オマエ、無理に参加しなくて良かったなぁ」
 お蔭様で、カメラが増えました、とは言わなかった。 

 親と教師の二者面談で、(一度だけ)母親が3年生のクラス編成にクレームを付けたのだそうだ。国公立は精鋭クラスとその他大勢に分けるのに、私立専願はどうして精鋭クラスを作ってくれないのか……と。
 その話は、母からではなくG教諭から聞いた。
「R組の内実を見てたら分かるやろ。私立専願で精鋭クラスなんて作ってみろ、そこに入れなかった奴は誰も現役で大学に進めない、なんていうことになる」それから、ニヤッとしてこう付け加えた。「お母さんがあの調子じゃ家で大変だろ」
「はぁ。受験生のくせにちっとも勉強しないとボロカス言われてます」
「自信持っていい。オマエが(大学入試に)通らんかったら、ウチのクラスで誰が通るんや?」
 何度も繰り返すけれど「次の定期試験で0点取るなよ」から僅か1年後の話である。
 書いているうちに、ひとつの想像が浮かんできた。
 1年生時の担任・数学のT教諭も、同じように優等生を相手にボヤいたのかもしれない。例えば、
「このあいだの××模試、国語は誰が1位やと思う? Kai-chanやぞ。いったいどないせえっちゅうねん」
 その結果、第一報が級友から伝えられた(前回参照)のではないだろうか。

 

 という訳で、高校編2はここまで。落第科目持ちの仮進級で入ってきた生徒が、学級内で首位になったり種目別……じゃなくて科目別ながら精鋭クラスを差し置いて"銅メダリスト"になったりというのは、前代未聞かどうかはともかくそうそうなかった事例だと思う。