遠い記憶から(小学校篇)
●濡れ衣事件
年齢ヒトケタの筆者について、両親(いずれも故人)や齢の離れた長姉はこう口をそろえた。
「とにかく子供らしくない子供だった」
該当する記憶はほとんどなく、ただこの先入観が一人歩きしてとんだ濡れ衣を着せられたことだけを覚えている。
学校で友達が出来る。やがて、相手の家へ遊びに行ったり、相手が遊びに来たりするようになる。実家はいわゆる古民家で、一階は襖を外せばぶっ通しの平面になる作りだった。近代的な生活には不向きだから、一部の襖は閉めっぱなしで家具の裏になっていたり、通路としてしか使われていない部屋がいくつもあった。そういうところはプラレールの線路を展開するのに好都合で、そのぶん線路もたくさんあったもので、やがて「オマエのうちで遊ぶ方が面白い」と皆が口を揃えるようになった。
当然、やや距離のある友達の家へ行ってもすぐ引き返さなければならないという事例が頻発した。夏休みともなると教室で約束して……ということも出来ないから、電話をかけて相手の都合を聞く、先約がないと向こうが遊びに来る、というパターンが定着する。
次の学期、担任の女教諭に叱られた。
「電話で友達を呼び寄せるなんてとんでもない」
どうやら、母が保護者面談で注進に及んだものらしい。もしかしたら「とにかく子供らしくないところがあって」とぼやいてみせたのかもしれない。
仕方がないので、小学校を卒業するまで、友達と遊ぶときはしばしば相手の家へ行ってすぐ一緒に帰ってくるという無駄な往復を繰り返した(相手の都合を確かめただけであって、別に"呼び寄せ"たつもりなどないのに)。
小学生でもケータイを持っていたりする今なら叱られることもないのだろうか?
人間の記憶とは不思議なもので、遠い思い出を文章化していると、同時期の記憶が次々に甦ってくる。ウチへ遊びに来る"常連"の中にはプラレールの車両を持参するのが現れ(京成スカイライナーが眩しかった)、目ざとく気づいた母親が、晩御飯の食卓で「あんな電車ウチにあった?」と訊くので、友達が持参したと説明すると、別に叱られもせず妙に感心されたっけ。レンタルレイアウトの遠い祖先といえるかもしれない。また、手元の「国電」は3両とも両運転台なのに、友達のは中間部の妻面が再現されていて、(同一製品が)改良されたんだ、と思ったのもあまり子供らしくない反応か。
●かもつれっしゃのうた
子供らしくない、といえば、一つ該当しそうな記憶に辿り着いた。
発表会というのが、講堂(兼体育館)の舞台で学級ごとに出し物をする、その際にウチの学級は「かもつれっしゃのうた」が演目となった。以前、一度インターネットで調べたことがあるけれど、それから文章化を始めるまでに「おナカ爆発事件」が起きて時間が経ってしまい、調べる前から覚えていた最後の部分しか歌詞がでてこなくなっている(肝心なのは最後の箇所なので調べ直すことはしなかった)。
♪しゃしょーサーンはいーつーもー いーちーぱーんーあとーからー
ダダダンダダダンダダダンダン とはーしーるー
こんな歌である。1年生のときと思われ、逆算してみると時は1970年代後半、貨車といえば大半が真っ黒い2軸車であった。で、首から画用紙をぶら下げ児童が並んで貨物列車の編成を組むから絵を描きなさい、ということになった。
「積み荷を強調して派手に描いときゃ、貨車自体はホンモノと同じ真っ黒でも大丈夫だろう(確かに発想が子供らしくない)」と楽観していたところ、籤引きで割り当てられたのが、なんと車掌車!
わー、これ真っ黒な絵を描いたら絶対に何か言われるぞ、と警戒して青いクレパスを選び、ヨ5000かヨ6000か辺りの絵を描き始めたら、見回りに来た担任は、
「機関車と車掌車は高さを倍に」と書き直しを命じた。
不服そうに「えーっ」と言ったきり動かなくなった(車掌車が有蓋車や家畜車の倍なんておかしいやん)のを見て、教諭は状況を「察し」たらしく、キャンピングカーまがいの下絵をほぼすべて描いてくれた。
中学生で鉄道写真を初めて間もなく、第二の我が家を前進基地に紀勢東線の専用貨物列車を追い始め、その度にこの記憶が呼び覚まされたせいか、年齢ヒトケタ時代の記憶としてやたら細部が鮮明である。
●退院したらぼくの席がない
小学1年生の3学期に小児喘息がひどくなり、春休みに入るのを待って大きな病院へ行ったら、そこで検査入院を命じられた。退院する前に新学期が始まってしまい、小児喘息ならあそこ、と紹介された病院だけに院内学校が用意されていて病棟からしばらくそこへ通っている。入院中の記憶は既に途切れ途切れで、忘却を逆手に断片を自由な創作でつないだ短編小説を同人誌作家時代に残しているため、改めて文章化することはしない、
退院して元の公立小学校へ行ったところ、驚いたことに書類上は転校扱いで(病院に"各種学校"ではない正規の小学校があったということらしい)、出席番号は男子児童の末尾であった。しかも、いきなり級友から、
「お前の机、ないぞ」と言われた。
教室ではあくまで「転校ではなく入院」とされ無人の机があったのが、別の転入生に供されてしまったとのこと。
呆然としていたら、最初の授業が始まる直前になって机と椅子が運ばれてきた。
転校生いじめを誘発する惧れありという判断か、転入生の出席番号を末尾に追加する方式は後に改められたようで、高学年時には出席番号が途中で後ずれしたことがある。
●プラレール卒業命令と「鉄道歳時記」
何年生のときかははっきりしない。学年がひとつ上がった時期に、母が「いい加減にプラレールは卒業しなさい」と命じた。覚えているのは、そろそろ言われるんじゃないかと予期していたこと、小学生の小遣いではとても手が届かない「鉄道模型」を替わりに買ってくれはしないかと期待していたこと。
残念ながら期待は裏切られ、ねだりもしなかった。駅前商店街の玩具店ショーウィンドーに、なぜかKATO(まだ正式社名の関水金属だけを名乗ってたか)Nゲージ固定式線路とおぼしき分岐器がひとつだけ置かれていて、ビックリするような値段だったから「ねだるには高価過ぎる」というこれまた子供らしくない判断があったものと思われる。ただ、HOゲージ規格のプラモデル(短い編成のブルートレイン・機関車は乾電池使用)を買って貰ったのはプラレール卒業後であろう。最小規模のエンドレス(全プラスチック製レール付属)で部屋いっぱいになるし、飾るにもデカ過ぎるというので、しばらく定期的に車両を変えながら棚に数両ずつ飾っていたものの、短期間で押入れ行きとなりそのまま永眠してしまった。
いつしか「鉄道への興味も卒業しなければならない」と自分に言い聞かせる(さほど大きな未練はなし)ようになって数年、中学生のときにどういう訳か「小学館刊・鉄道歳時記」を予約購読してやってもよい(確か新聞折込広告を見て)というので、特に欲しくはないけれど買ってやるというのだからと頷いておいた。
宮脇俊三編「小学館の鉄道もの」といえば、中学生かせいぜい高校生辺りを購読者層に想定したものが多い。例外的に、1984~85年に刊行された「鉄道歳時記」全5巻は完全に大人向けである。三浦哲郎の『夜汽車の思い出』("酒の匂いのする記憶"という章あり)など、今読み返してもなかなかの名随筆だ。そして、カラーページは眞島満秀らによる「鉄道情景写真」で構成されている。
この本で「鉄道は大人の趣味対象になっている」ことを初めて知った。1985年といえば、何度となく乗った紀勢本線の「きのくに」を初め、急行列車の大幅削減が行われた年でもある。
久方ぶりに親にねだったのが、カメラ。
「もう少しちゃんとしたカメラが欲しい」というねだり方をしたら、なんと"町のカメラ屋さん"が「どうせなら」と勧める一眼レフを買ってくれた!
振り返ると、おそらく性能も画質も悪過ぎたせいで本棚に放置されていた"ポケットカメラ"を、文句も言わず使い続けていたのが「功を奏した」のかもしれない(こちらのページで触れたPAX35はレンズが白濁してしまい退役ずみ)。
ほぼ同一性能の「キヤノンAE-1プログラム」と「ミノルタX-700」が最新機種だった頃である。どうしてもキヤノンがいいというのでなければミノルタの方がお買い得というので、ミノルタユーザーとなった(カメラの会社じゃなくなるなんて本職だって想像していない)。最初のレンズは"MDズーム35~70mmF3.5"。
こんな経緯で、筆者の場合「子供の興味対象としての鉄道」と「大人の趣味対象としての鉄道」が完全に分断されている。初めから「目指すは"鉄道歳時記"のような情景写真」なのは拙サイト本編をご覧いただければすぐお分かりいただけよう。
プラレール卒業命令の前後、地域主催の子供会で「ケンブリッジ・ |
●リコーダー実技試験
音楽の授業が始まる直前にピーヒャラやっていたのを教師陣が聴き、それなりに注目されていたようである。小学校最後の実技試験となる日、音楽の教師(名前を覚えてない)がどういう訳かやたらと不機嫌で、なんだか厭だなぁ、と思いながら愛器を手に"試験場"の音楽準備室へ入ったら、筆者の顔を見るや、
「ああ、やっとまともな演奏が聴ける」
これで少し気が楽になり、課題曲を無難に吹き終わったところ、
「今の演奏は95点だ。残りの5点は何か分かるか」と問われた。分からないと答えると、
「楽譜に忠実過ぎる」棚の笛をとり、テンポを大きく揺らしながら一部を吹いて聞かせ「こんなふうに、独奏のときはもっと自由に吹いていい。それが出来てたら100点だ」
小学生が"独奏"することなんて普通はない(筆者は何度かやらされた)。とにかく虫の居所が悪かったのだろう。
実は一度「お前、音楽の道に進んだらどうか」と真顔で言われたことがある。といっても、基礎から積み上げて初見の楽譜を音に出来る訳でもなく、完全に「ケンブリッジ・バスカーズの猿真似」だったのでどだい無理な話であった。
おそらく人生最後となる高校2年生のリコーダー実技試験(3年生は音楽の授業ナシ)のとき、課題曲を吹き始めてからどういう訳か上の会話を思い出した。それで、ほぼ即興で強弱(まん中のラ・シ・ド・レだけはソプラノ・リコーダーでも音量のコントロールが利くのである)をつけたりフレーズの終わりでルバートをかけたりしてみたところ、一言ながらただひとり教諭から評を貰った。
「綺麗ですね~」
同時に、次に吹奏する後ろの席から舌打ちが聞こえた(別室ではなく音楽室での公開吹奏、演奏時以外は好きな教科を自習というのがいかにも進学校)。
正直、後ろのヤツには申し訳なかったと思う。
中学時代はというと、一度思い切り吹き損ねて旋律線が崩れるという大失敗をやらかし「オレも落ちぶれたなあ」とひどく悲しくなった記憶があるのみ。気持ちに余裕がなかったのだろう(次回"中学校篇"参照)。
●ガタンゴトン
確か5年生のとき。理科なのか社会科なのか今となっては見当がつかないけれど、授業中に児童への質問!
電車が走るときガタンゴトンと音がするのはなぜ?
えーっと、温度によってレールは伸び縮みするから、繋ぎ目には隙間をこしらえてあって……でも何ミリか何センチかまで知らないぞ、その隙間を指す言葉があったっけ、と頭の中で答えを作りあぐねていたら、担任に指名されてしまった。
答えが準備できていないので何も言えずにいると、やがて別の児童が当てられ、
「レールに継ぎ目があるから!」
え? そんな答えでいいのかよ、5年生だぞ。
「オマエならそれくらい分からんか」と不思議そうな担任。
おぼろな記憶ながら、友達グループの中でひとりだけ、
「そんな答えでいいのか、と俺も思った」と言ってた気がする。中年域になっても、この問いに対する小学5年生らしい答えは何か、というのはよく分からない(笑)。仮にレールを密着状態で固定し踏面を削正したら、少なくともガタンゴトンと形容するほどの音はしないだろう。後から当てられた児童の答えはおそらく正しくない。
上述『鉄道歳時記』~春の巻に、まさにこの「レールの繋ぎ目にある隙間」を調整する保線作業の話が掲載されている。それによると、隙間を『遊間』と称し、25mレール摂氏20度で7.5ミリが指標、これを調整する作業を『遊間整正』と呼ぶとのこと。google検索にも出てくるから今も変わらないようだ。
空き家になると荒廃が進むのは住宅も校舎も同様で、2度「事故」が発生している。
1度目は校内放送用のスピーカーがゴットーンと落下。2度目は教室と廊下の境界にある窓枠がひとつ廊下側にガッシャーンと落下。
今なら大騒動になっているだろうけど、どちらも児童が整然と着席している授業中だったため人的被害がなかったのをいいことに、消防にも市にも報告しなかったのではなかろうか。
●タカラのプロ野球ゲーム(サイコロ絵文字が環境依存につき文字化けの可能性有)
6年生のとき、タカラから発売されていた「プロ野球ゲーム」が大流行となった。同世代なのにそんな話は知らんぞ、という読み手が大勢いても仕方ない。公立小学校校区内での話だから。
商品名を掲げたので詳細は検索していただくとして、とにかく必要となるのは「選手カード」と「サイコロ2つ」であった。専用のボードも発売されていたけれど、なくても不都合は生じなかった。ルールはかなり細かくて。何度も何度もサイコロを振らないと試合が進まない。
時間短縮策として、リズミカルに声を出しながらゲームを行う、という手法が友達グループでは定着した。
「ボールコース、1ボール。ストライクコース、打ちに行って、⚁⚂(2-3)……セカンドゴロ、エラーは……無し。1アウト」
という調子である。実際の時間短縮というよりは気分的に時間経過が早くなるという程度ではあろう。この年に仲良くしていた友達が、家が美容室を兼ねているため大きな声を出す遊びは以前からご法度というので、冒頭に出てくる「友人宅への無駄な往復」が卒業まで続いたのはこのためである。
流行は昭和58(1983)年だが、偶然にも筆者は昭和56(1981)年版の読売ジャイアンツ選手カードを持っていて、初披露のときは驚かれたものの、次々に「オレ、55年版(王貞治が現役!)を持ってる、54年版を持ってる……」というのが出てきて、56年版はすぐ霞んでしまった、
打ちに行った結果は、各選手カードの裏に一覧表があり、⚀⚀(1-1)や⚅⚅(6-6)がホームランであることが多かった。ごく希に、ゾロ目じゃないところでホームランになる選手が存在、その1枚が手元にある56年版「中畑清」の⚀⚃(1-4)だった。
ゲームを繰り返すうち、⚀⚃(1-4)ホームランがやけに頻発するというのが気になりだした。
あるとき、床を転がる2つのサイコロを見ていて気がついた。
「そうか、ゾロ目とそれ以外じゃ、出現確率が違うんや」
「え? 36分の1で変わらんやろ」
「違う違う。こっちのサイコロをA、こっちをBとしよう。⚀⚃(1-4)だと、Aが1でBが4の場合とAが4でBが1の場合と、2つのパターンがある。ゾロ目はパターンが1つだから、出現確率は半分や」
「……あ、なるほど。⚀⚃(1-4)が出る確率は36分の2、18分の1か! 56年中畑はコワいなぁ」
小学6年生の会話としては"なかなか"のものだと思うが、如何か(もちろん言葉遣いの細部は正確な再現じゃない)。
●反戦教育が生んだ左翼思想アレルギー
高学年時の担任はトンデモナイ人だった。
簡単に言えば「サヨク暴力教師」である。黒板の横手に1メートルの木製定規がいつもたてかけてあり、何度もこれで児童の尻を叩いた。筆者も宿題を忘れたといっては叩かれ、指定の持参物を忘れたといって叩かれた(学力はあってもかなりオッチョコチョイだった)。機嫌が悪いと、制裁は「顎を引け、歯を食いしばれ」でビンタになる。こればかりやっていると反発と憎悪しか生まないのは計算済みで、授業の端々に下らない駄洒落やジョークを散りばめ、定期的に「次の授業はナシ、運動場で遊んで来い」がくる『飴と鞭』での教室支配だった。
その上で「非武装中立こそ正義」という思想教育が行われたのだから恐ろしい。
といっても、もともと論理が成立しない非武装中立賛美を2年間続けると綻びが生ずる。
傑作だったのは、日米安保は悪であり要らないものと教えこもうとして、黒板に『永世中立国』と書きスイスを賛美したところ、折悪しく数日後の読売新聞が「スイスの徴兵制」に関する特集記事を載せたこと。必ず新聞を読みなさい、という国語教育が裏目に出たのである(さすがに、親に頼んで朝日か毎日を読め、とは言わなかった)。
類は友を呼ぶで、高学年時の友達グループにはヒネたのが集まっており、
「徴兵制が素晴らしい国かよ」
やがて、矛盾を見つけては学校帰りの道々「今日のアレ、おかしいよな」と言い合うようになり、6年生の夏ころには、
「はいはい。そういうことにしておこうよ、この教室の中では。せんそうはんたーい、じえいたいはいりませーん(アホかいな)」
という面従腹背姿勢が定着してしまった。お蔭で、中年域になってからも「反戦」と聞くと脊髄反射的にムカッとなる。教育効果抜群であった……というより、知能の発育が早かった児童ほど左翼アレルギー発症率が高かったのではないかと予想される。
そうして迎えた卒業を前に、学級ごとの「卒業制作」として大きな木製レリーフを作ることになった(正確には作れと命じられた)。
題材は自分たちで決めろというので、学級会で話し合った結果「運動会の光景」にしよう、となった。小学生らしい素直な発想である。ところが、この案は担任に却下された。
「勉強した内容にしなさい」
一人の女の子がかなり大きな声で「えーっ、そんなのつまらない」と言ったのをやけにはっきり覚えている。
もう一度話し合った結果「縄文人(弥生人だったかも)の生活」に改められ『社会科資料集』なる教材に載っていたのを寄せ集めた下絵が出来上がった。木版への転写が終わり、児童一人ひとりに小分けされた木片を彫刻刀で削る作業に進んでいたとき、あまり知能の発育が早くない(もっとはっきり書けば学力底辺層の)児童が血相を変えて教室に駆け込んできた。
「大変や、他のクラスは大空襲とかヒロシマとかやぞ」
続いて入ってきた担任は吐き捨てるように
「お前らが勉強したのはそんなことだけか」
筆者はというと、思わず手を止めて『やったぞ、ザマァ見ろ』と心の中で喝采し、それを表情に出すまいと努めた。これも記憶がやけに鮮明である。サヨク教師としては、特に反戦教育に力を入れたという自負から「勉強した内容」というだけで十分な誘導が出来る、と踏んだのかもしれない。どうせ他の学級ではもっとあからさまな誘導がなされたに違いない。
かくして、ぼくたち6年1組だけは「縄文人(弥生人?)の生活」という極めて健全な卒業制作を体育館に掲げることが出来たのだった。
●ショスタコーヴィチばりの卒業文集
凶悪犯が捕まると、どういう訳かメディアが必ず「小学校の卒業文集」を探し出してくる。
なんとなんと! 筆者のは『担任のS先生バンザイ』という内容。だって上記のような「本当のこと(ここに掲載するまで身内にしか話していない)を書く訳にいかない」から。ショスタコーヴィチの「ソビエト独裁政権に対する面従腹背の記録」に接する度に、卒業文集を思い出す。
筆者が人でも殺した場合(←おいおい)、メディアはちゃんと同人誌作家時代の筆名を見つけてくれるのだろうか??