遠い記憶から(高校篇1)

 答案に書かれた数式ひとつひとつに「×」をつけながら、
「滅茶苦茶、これも滅茶苦茶、これも滅茶苦茶」と、数学のT教諭は言った。「次の定期試験で0点取るなよ」
 小テストが行われた日に病気欠席をし、翌日の放課後に一人で受験したときのことである。答案が突き返されたのか回収されたのかは覚えていない。ただ、悔しいとも悲しいとも感じず、放心状態でがらんとした廊下を歩いた。
 4年ほど前、同じように欠席した日のテストを放課後に受けさせられたことがあった。公立小学校時代のことで、同じ日に欠席した女の子と二人、3つほど間隔を空けて最前列に座り、図形の問題に取り組んだ。
--底辺を図形の外に延ばせば解けるんだけど、それをせずに解き方を探せということなのかな?
 小学生らしい(?)疑問を抱き、手を挙げて訊いてみた。
「先生、この線、図形の外に延ばして計算してもいいんですか」
 次の瞬間、一緒に受験していた女の子が「あっ」と声を上げ、教師は慌てた声で、
「オマエ、それ言うたらアカンがな」
 教科書の新しい章に入った際、あえて解き方を児童に考えさせるという方法が取られたとき、まっ先に「分かった!」と手を挙げたこともある。あの自分は何処へいってしまったのだろう。
 田舎の優等生の悲哀……。
 なんでも、中学受験のときに進学塾の担当者から両親は忠告を受けたのだそうだ。
「あの子の学力では、仮に合格出来ても授業についていけなくなって、不登校に陥ったりする畏れがありますよ」
 それを知らされたのは大学を出た後で、苦笑するしかなかったのだけれど、その「忠告」が必ずしも的中した訳ではなかった。
 136人中130位台の補欠合格で滑り込んだ中学校では、ほぼ一本調子で席次を上げていき、唯一伸び悩んで「落第点のラインがすぐ下にちらちら見える」低空飛行に陥った数学も3年生のときには少し上向いた結果、内部進学で不合格にはなり得ない「高校入試」と、中学最後の定期試験で連続して自己ベストを更新。確か初めて40位台に乗せたという覚えがある。定期試験の『古典』で一度だけ学年最高点も取った。
 3年間担任だった英語のE教諭も、
「よう頑張ったよ。数学も別の先生になって気分が変わるだろうし、もう大丈夫」
 と笑顔で送り出してくれたものだった。
 何が「大丈夫」かというと、当初からの方針で、高校への内部進学時に成績下位のひとクラス分を切り離し、上位90名だけが「6年一貫教育カリキュラム」に残される、その中でも堂々『真ん中』の席次まできたということだ(下位のひとクラス分は高校から入ってくる生徒約900名の中にバラ撒かれると聞かされていたけれど、それは実行されず、授業内容のみ高校からの入学生と同一にして「C組」にまとめられた)。
 それなりの「希望」を抱いて始まった高校生活、実は初日から暗雲が漂っていた。
 1000人を越える新入生のうち内部進学136名という事情から、健康診断の手伝いなどさせられてひどく慌しい日々が続き、どんな時点での出来事だったか記憶にない。とにかく、1年A組として日常生活を送ることになる教室に初めて集合したところへ、なんと中学の数学担当だったT教諭が現れた。
生徒「えっ?」
T教諭「なんや? オレは高校の先生やぞ。オマエらとは初対面や(ニヤニヤ)」
生徒「わはははは」
筆者「……(おい、コイツが担任かよ。E先生、話が違うよ)」
 数学で平均以上の学力を持っている生徒にとっては、馴染みの教師が現れてむしろ安堵の気持ちがあったろう(教え子の学力が総じて良好というので高校へ抜擢されたらしい)。こっちはそれどころではない。
 で、厭な予感が的中し、下位ひとクラス分がいなくなって教える側が想定する学力が中学時代より上がったことも手伝って、数学の「落ちこぼれ」は深刻化、そのうえ特殊なカリキュラムゆえに時間割には「数学I」と「数学A」の二科目がある! 当然ながら定期試験も「数学I」と「数学A」の二科目。この影響は甚大で、中間試験はA組+B組約90人中70位台、期末では80位台に沈み、そのまま浮揚することがなかった。
 実を言うと、このページを作るに当たって記憶と記録を頭の中で整理してみて、初めて「学級内ワースト5争い」をやっていたことに気付いた。中学2年生の頃136人中70~80位でしばらく停滞していたことがあり、見慣れた数字であった上に、その日その日の「宿題」をこなすのに頭がいっぱいだった。ふたクラス合計で90人中80位台ならワースト10、ひとクラス分として単純に2で割ればワースト5である。
 その先は絵に描いたような悪循環だった。宿題として与えられた数学の問題一つを解くのに、平均的な学力の生徒と比べ2倍も3倍もかかる。気力も体力も時間も、無限ではない。他の科目にしわ寄せがきて、2学期に入ると得意の文系科目までガクンと順位を下げた。
 小テストで前問不正解をやらかしたときには「数学はこのままじゃ赤点(落第)だ」というところまできていたのである。
 思えば、生まれて初めての……結果的には最初で最後の「落ちこぼれ経験」であった。
 とどめを刺そうとするかのごとく、人間関係でも厄介なことになった。夢に出てこなくなるまで10年かかったのを今になってほじくり返すつもりはない。でも、冷静客観的に見れば「まぁそうなるわな」という結論には行き着く。
 アトピー持ちで健康でないのは一目で分かる。十代初めの「田舎の公立小学校」時代に培われたモヤシ系優等生気質はそう簡単に変わるものではなく、落ちこぼれの癖に成績最上位の連中とばかり友達付き合いをしている。
「なんやアイツは」となるのも無理はない。
 しかし、じゃあそれがこっちの「責任」かといえば、それはNoだろう。
 そんな秋のある日、終礼になかなか担任が現れないと思っていたら、教室に入ってくるなり、
「オマエらぁ、エライことになったぞー」
 と、学校の『方針転換』が告げられた。A組とB組90名、高校内の精鋭クラスという扱いになっているが、業者試験で「その他大勢」と同じ土俵に乗せてみるとさっぱり結果が伴っていない。このまま「英才教育」を続けても落伍者を増産するだけなのは目に見えているので、完全6年一貫という方針そのものを撤回する。来年度は出身中学を問わない形で新しく精鋭クラスを組み、そこから外れた生徒は高校から入ってきた連中と一緒に「その他大勢クラス」にバラ撒かれる。精鋭クラスに残れるのは半分くらいと思え……
 このことが高校生活の大きな転機になろうとは、この時点では想像だにしなかった。
 生徒の自由意志による文系コース・理系コースへの志望調査を経て公になった新方針クラス編成の陣容は、理系精鋭クラスA~C組、理系・その他大勢D~J組、文系精鋭クラスK・L組、文系・その他大勢M~W組というものである。精鋭クラスの"定員"は2学級から5学級へと大幅に増やす訳だ。
 学年全員の成績を相対評価するには、コースによって内容が異なる定期試験ではなく、同じ問題で点数が比較できる業者試験を使わざるを得ない。業者試験は国英数の配点が「平等」で、中学3年間成績上昇を続けてきた文系科目はまだ「貯金」が効いており、席次はそう悪くなかった。どういう訳か国語で受験者約1035人中1位を記録したのもこの頃である。これに関して、T教諭は数か月後の保護者面談までノーコメント! 第一報は級友から「国語、お前が1位らしいぞ」と伝えられたという記憶がある。どうして知ったのか確かめる気力はなかった。
 ただ、単純計算で精鋭クラスに残れる点数だとしても、数学で落第点を取ってしまうとどうなるのか……

 冬休み、岡山県に私用で出かける父親と同宿し(校則上外泊は保護者同伴が必要、親の署名捺印がある必要書類を出したら「ええご身分やな。旅行してる余裕なんかあるんかい」とT教諭に嫌味を言われた)、翌日ひとりで片上鉄道を訪問している。天候が崩れてきて、撮影のために降り立った苦木は雨……消防倉庫の軒下から辛うじてこんな絵が撮れた。

 3学期末試験の「古典」は90点満点、残り10点分は授業中に行う百人一首のカルタ取りにより点数を加算する、ということになっていたので、待ち時間にずっと副教材を眺めていたものである。そんなやり方で身が入る筈もないけれど、
「百人一首なんて受験にはまず出題されないだろうし、今さら定期試験の古典で何点か稼いだところで、どうせ数学で落第して"その他大勢クラス行き"なんだから」
 定期試験でジリ貧になっている文系科目の成績が業者試験に波及するのも時間の問題と考えられ、そうなれば「関関同立を目指せば数学が出来なくたって困らない」という前提が崩れてしまうというまったく先の見えない状況で(記憶は曖昧ながら、国語が1位だったときに英語が三桁の自己ワーストだったため全然嬉しくなかったような)、ひどく投げやりな気持ちだった。このときほど鬱々とした気持ちで鉄道写真を撮った記憶は後にも先にもない。現地が快適な気象条件だと現実逃避が出来たのだけれど。

 期末試験の結果、見事に数学は落第点で「仮進級」という赤文字のゴム印が押された通信簿を貰い「その他大勢クラス」行き、2年R組に入れられた。秀才ぞろいだった友達のひとりが、ちょっと微妙な表情になって「残念やったなあ」と声をかけてくれたのを覚えている(後に彼は大阪大へ)。
 情報通によれば、下位クラス1年C組から新方針精鋭クラス「ABCKL」へ昇格を果たしたした『下剋上組』は一人もいなかったそうである。
 全体の学力、やっぱり低かったんだねえ。

 それにしても、数学だけ極端に落ちこぼれている生徒を、どうして数学教師が担任なんていうクラスに入れたのだろう? 中学3年間は英語教師が担任ということで甘えているフシがある。喝を入れてやれ、という判断でもあったのか、単なる籤運だったのか……。何かにつけ嫌味を言われた印象が強烈ながら、一度、授業中に「落第した場合の流れ」が事細かに説明されたのだけは「不安を和らげるための配慮」が感じられた。

 詳細は次回作に記すが、2年R組では「モヤシ系優等生気質」と成績が一致。それでも初めのうちは何かにつけ「目立たないよう」気をつけていたのだけれど、居丈高な癖に授業内容がお粗末な英語(リーダー)のO教諭にムカッ腹で「質問攻め」をしたり(斜め後ろの席にいた成績上位の生徒に「(教諭の)今の説明、納得出来た?」と訊いたら首を横に振ってくれた! 病気欠席の翌日に当日の授業内容を確かめたときには「昨日はヒドかったぞ。オレも休めば良かった」という答えが返ってきたことも)、そのO教諭が「俺の担当しているクラスの中でR組だけ飛びぬけて点数が低い」と怒り心頭の定期試験で「全員の点数を公表する」となったとき最高点だったりして、目立たないというのが難しくなった頃のこと、
「R組の●●を発見」とかいって(●●はドラマか何かの登場人物)、明らかに下から数えた方が早い学力の奴が『ちょっかい』を出してきた。こうしたときは初期対応が何よりも重要である。今の立場なら、喧嘩両成敗となっても後々目をつけられるのは相手の方、成り行きによっては顔面に一発食らわす覚悟を決めたら、なんと向こうは明らかに不自然な形で『ちょっかい』を中断した(拍子抜けしてしまったほど。無意識のうちに利き手である左の拳が臨戦態勢に入ってたのか……。どうも「あれ? コイツ歯向かってきそうだぞ、喧嘩騒ぎになるとマズい」との判断がなされた可能性が高い。こちらが「ただのモヤシ系優等生」ではなく"修羅場をくぐって"きているとは知らなかった筈だから)。
 それきり何事も起こらなかったけれど、妙な後日談がある。
 ある日、駅で「特に仲がいい訳でもなかった中学時代の同級生」に声をかけられた。
「お前、R組だったよな。バレーボール部の奴がおるやろう」
「バレーボール……あぁ、二人いるな」
「お前、そのうち一人から相当嫌われてるぞ、気をつけろ」
「……分かった。頭に入れておく」それなら、例の『ちょっかい』をしかけてきた奴だ。見えない精鋭クラスを相手に競争してるんだ、というのがこちらのモチベーションだったからなぁ。俺たちを見下しやがって……という反感を買ったのだろう。一部でも教師に反抗的な姿勢を見せときゃ良かろうと考えたのは安直で「アンタね、偉そうな割に授業内容がお粗末過ぎやしませんか?」という方向の反抗では逆効果だったらしい。
 次の日、今度は同じR組の「中学時代からの友達」に忠告を受けた。
「おい、昨日Bと一緒に帰ってたみたいやけど、付き合いがあるのか?」
「いや。上本町で声をかけられて、鶴橋まで一緒にいただけ」
「Bにはあまりよくない噂がある。悪い連中と繋がってるらしいから、かかわらない方がいい」
「分かった、気をつける」
 厄介だねえ、人間関係って奴は(苦笑)。
 その後、鬱憤の溜まりがちな成績中下位連中は思わぬ方向へ矛先を向けた。やられたのは、体格のいい目立ちたがりのタイプ、おそらく小学校高学年から中学校辺りの年齢で「クラスの人気者だった」時期もあったろう。ああいうのも標的になるのか「コワイねえ、コワイから、オレ寝る(分かりにくい引用)」……と、こっちは傍観を決め込んだ。だって「モヤシ系優等生VS体格のいいクラスの人気者」というのも、あまり相性はよくないものだから。
 一度、成績中下位というより最下層の連中が、他のクラスを相手に派手な「集団抗争」をやらかし、短期間ながら出席停止を食らうという事件が起きた。この中の一人がすぐ近くの席にいたことがあり、面白いことに彼との関係はそう悪くなく、機会があれば普通に喋りあっていた。
 相手が何組の集団だったか知らされなかったけれども「R組をなめるな!」とか言ってたらしいから、このグループには「アンタね、偉そうな割に授業内容が~」の反抗姿勢が好ましく映っていたのかもしれない。

 補遺をひとつ。
 連載初回で「伏線」を引いたリコーダー実技試験の話(高校2年生のときは~、中学校では~、で1年生が飛んでいる)をこのページで書くつもりが、どうしても話がうまく繋がらなかった。
 おそらく「精鋭クラス特例」で、1年生時のリコーダー実技試験は課題曲ナシ、何でも好きなのをやれ、であった。
 "音楽批評仲間"が教諭に「合奏してもいいですか」と訊くとこれもOKというので、ビゼー作『"アルルの女"組曲~ファランドール』を3本リコーダーに編曲して実技試験に臨んだ(これも元ネタは「ケンブリッジ・バスカーズ」ながら、リコーダーだと音域が一音だけ足りないのでこの曲ではフルート使用)。編曲に無理があって"本番"では難所が滅茶苦茶になってしまったものの、相対評価だから通信簿では結構な高得点を貰った。
 放課後の教室で繰り返したリハーサルは非常に楽しいひとときで、1年生時の数少ない平穏な思い出である。