北海道 旅の終わり
親よりも先に姉を喪った。2012年の夏のことである。
その姉がまだ元気だった頃、突然、北海道を旅したいから自分と母を「お薦め」の場所へ案内してほしい、と言い出したことがあった。筆者と違って姉は主に海外旅行派であり、西欧、南欧、北米のほかシンガポールなどにも足をのばしている。どういう風の吹き回しかと尋ねてみたら、北海道は高校生のとき修学旅行で訪れただけで、筆者の撮ってきた写真を見ていると「北海道らしい」ところへ行ってないようだから、との答えである。
そういうことなら、とこちらもおおいに乗り気になり、得意の道東・道北から「日本国内にもこんな風景がある」というようなところを巡るプラン作成に取りかかった。
この区間は車両の設備が悪いからバスにしようか、とか、ちょっと強行軍だからここで半日ほど都市部で時間を作っておくか、とか、いつもと違う要素に手間取りながらも、これなら、と自分でも納得できる行程案を仕上げた。
それが何年頃だったか、既に記憶がはっきりしない。もう社会人だったのは確かであり、かつホテルの宿泊費を調べるのにインターネットを使わなかった覚えがあるので、1990年代半ばから2000年代初めにかけてのことだろう。
しかし、結局この旅は実現しなかった。
北海道フリーきっぷを利用、グリーン車用ならこの値段で普通車用ならこの値段、路線バスの運賃がこれこれ、宿泊費の概算がこれで、あとは往復の飛行機代、これは姉の方が詳しい筈だから、と詳細を示したら、
「うわっ、高ぁっ!」
こっちの方が安いから、と母と二人でカナダへのパック・ツアーに行ってしまったのである。
筆者としては骨折り損のくたびれ儲けに終わった訳だけれども、「ああ、そういうことだったのか」と目からウロコの心持ちではあった。
この姉に限らず、世間一般の「旅好き」が国内旅行でさえ専らパック・ツアーへ向かうのが不思議でならなかった。時刻表とガイドブックを見比べながら行程を少しずつ組み上げていくのは旅の醍醐味である。忙し過ぎる人、旅といえば仲間内でワイワイやりにいくものと思っている人は別にして、せっかくの楽しみを省略してお仕着せ行程に乗っかってしまうのはもったいないではないか。
つまるところ「値段が違い過ぎる」というのが最大の要因らしい。
明らかに品質の悪い中国製が世に溢れたのと同じ現象である。
では、「ガイドブックと時刻表」が当たり前だった旅の計画作りが「ガイドブックと旅行社のパンフレット」に入れ替わり、「このツアーはどこへ連れて行ってくれるか」というひどく受身な姿勢が主流になってしまったのはいつ頃なのだろう。
長いこと、この疑問は心の片隅にひっかかっていたのだが、何年かぶりに読み返した宮脇俊三著『旅の終りは個室寝台車』(新潮文庫)にヒントを見つけ出した。編集者の藍孝夫氏が"一般周遊券"を買いに行ったときの逸話である。
「交通公社で注文しましたらね、面倒くさそうな顔をされました」
と藍君が言う。
「いいお客のはずだがなあ」
「いますぐでなくていいんだろうとか、いろいろ言うんですよ。思いだすだけでも腹が立つ」
そう、まさにこの頃、旅行会社にとっては「いいお客でなくなり始めた」のである。この文章が書かれたのは1982年、筆者はまだ小学生で、旅といえば親に連れて行って貰う立場、家族旅行の行先が決まって、出発前に - もう一回り幼かった頃なら各改札口の前で親に手渡されるのは、たいてい"一般周遊券"であった。
あいにく、その後に続く世間"一般"の旅行者から"一般"周遊券が忘れ去られようとする時期と、筆者が鉄道写真を始めた時期が重なっているため、あるときふと気がついたら、自宅の居間でも大学の食堂でもガイドブックと旅行パンフレットを見比べる姿が当たり前という状況に変わっていた、という印象しかない。その間、筆者の頭にあったのはひたすら、より割安なワイド周遊券・ミニ周遊券か、帰りの切符をここで買えば硬券が手に入るだろう、というマニアックな思考のみであった……と書いただけで齢が分かるくらい、時代はさらに変わってしまっている。
変わったといえば、こちらもあるときふと気がついたら、北海道へ行きたいという憧れの気持ちが完全になくなっていた。
きっかけはよく覚えている。高速道路に対抗するため特急列車の高速化を進めた結果、車両に付着した雪がトンネル内で落ち、それがバラストを跳ね上げて窓が割れるというような事故が相次ぎ、対策としてほとんど全部の特急型車両の窓に保護用ポリカーボネートが貼られてしまった。ポリカーボネートはガラスより柔らかい。(特に近年の)特急型車両のように大きな面積の窓に外周部だけ固定して取り付けたら不規則に撓んでしまい、ガラスとの間で光が不自然に屈折して、水平線が歪んで見えたり、視界前方に油汚れのアブクみたいな汚い色の虹が出たままになったり、せっかくの美しい車窓、せっかくの大きな窓が台無しである(世間一般の「乗りテツ」にとってはどうでもいいことらしく、嘆いているサイトやブログはざっと探した限り見つからない。なんであの窓が気にならないの? と不思議で仕方がないのだが)。
ある冬のこと、無性に宗谷本線の車窓が眺めたくなり、往路「北斗星」B個室に道内2泊で復路「トワイライトエクスプレス」B個室、しかも帰宅せず職場へ直行という、稚内まで行くには慌しい行程となった旅のさなか、ああ、北海道の鉄道はもう駄目になったな、とひどく落胆したのは忘れがたい。加えて、旅の変化に周遊きっぷの廃止が追い討ちをかけたらしく、かなりの有名観光地でさえ路線バスが激減、姉のために作った幻の行程案を思い出しながら最新の時刻表を見ると、あっちへもこっちへも路線バスでは行けなくなっている。
「トワイライト」は正式に、「北斗星」もほぼ廃止が決まり、車両が比較的新しい「カシオペア」でさえ噂ではJR東日本内ツアー列車に転用されるとのことで、どうやら青函トンネル前後の新中小国信号場から木古内までは貨物線になってしまいそうな気配だし、行きたいという気持ちが何かの拍子に蘇るという可能性もなさそうだ。
北海道の旅は終わりである。
根室本線 尺別付近 (1997. 5)
もしかしたら姉と母のカナダ旅行中、ひとりで北海道へ向かったのかもしれない(その辺は記憶が全くない……)。
最後の数年は入退院を繰り返す状態で、姉はおそらく自分でも「もう旅は無理」と悟っていたのだろう、あるとき筆者のいないところで「あのとき、カナダじゃなくて北海道に行っておけば良かったかな」と呟いたことがあると、最近になって母から聞かされた。
(後記。その母も2014年秋に入院したのをきっかけに認知症が出て、急坂を転げ落ちるように何も分からなくなった。2017年春に施設へ入所、介護をプロの手に委ねられることで安心したのも束の間、同年9月に肺炎を起こして入院し、介護施設に戻ることなく11月に他界した)
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