不思議な体験

 実家の片付けを始めた。といっても、今のところは自室に専念出来る状況である(実家は2023年に売却。いわゆる古民家で、業者は「惜しいから出来るだけ残す方向で」と言っていたものの同年に解体)
 音楽CDの選別から手を付けたのだけれど、転居後すぐ移送した「常に手元に置いておきたい選りすぐりディスク」から洩れた保留分の中で「これは要らない」という処分予定ディスクを一箇所にまとめ、やっぱり必要と判断したものを少しずつ持ち帰っていくうち、残り3割くらいのところで行き詰ってしまった。僅かな回数しかプレーヤーにかけてないけれど、この曲のCDってこれ一枚なんだよなぁ……という具合である。
 方針転換を図り、鉄道趣味関係の書籍に手を付けてみると、こちらは近年かなり情熱が冷めてきていることも手伝ってスイスイ進み、コレとコレは残す、後は要らない……と7割方処分することを決め、1980年代の「鉄道ファン」誌などは既に大部分を業者に売却済である。
 文芸関係の書籍は最も難航が予想されたが、小説書きを諦めたせいか意外と決断がつけ易く、宮脇俊三全部(編著は除く)と北杜夫の純文学は手元に移送済み、畑正憲は一番好きな『ムツゴロウの無人島記』正続2冊だけ持ち帰り、もの書きが本業でないため内容に重複が多い西丸震哉は『山とお化けと自然界』(中公文庫)一冊に絞った。
 ここで予想されるのが「西丸震哉って誰だ?」という読み手の反応である。名前を出した他の作家と知名度に差があり過ぎるから。実は、今回の題材はこの本に因んだもの。
 西丸震哉氏の経歴などは知りたければインターネットで簡単に判明する時代だから省略するとして、本の題材は「山岳・寒帯湿原を中心とする探索紀行文」「文明批評」「幽霊などのオカルト系」の3つと決まっており、こうして並べると関連性がなさそうなのが本の中では巧妙に結び付けられている。
 拙サイトというのがあまりお化けや幽霊と縁のない世界なのだけれど、あまり人に話す機会のない過去の体験をいくつか文章化してみようと思い立った。
 初めは15年後に真相が判明した馬鹿らしい(と初めに記すのも何だが)お話。
 1988年のゴールデンウィーク、まだ鉄道写真を始めて間もない高校生だった筆者は、紀勢本線の岩代と切目の間でウロウロと撮影地を探していた。インターネットのない時代、撮影地ガイドに載っていなければ、雑誌のグラフ・ページと地形図を照合して現地を探索するのが唯一の方法だったものだ。
 線路に並行する国道42号線は岩代駅の北西で一旦山手へ入ってしまい、目当ての場所はなかなか見つからなかった。線路を越えて海側へ出るコンクリートの人道橋を見つけ、もしやと渡ってみたところ、階段を下った先は単なる犬走り。その先はどこへも行けそうにない。
 駅にある跨線橋みたいな造りのこのシロモノ、一体なんだ? と思いつつ周囲を見回していたら、駅の方角からかなり大型の三脚を担いだ撮影者が線路脇を歩いてくるのが見えた。
 この種の「出会い」を本当に楽しいと思えるようになったのは大学を出てからだう。
-やれやれ、他にも撮影者がいるのか。今日は臨時の客車列車が走るし、仕方がないか。
 なにしろこちらは高校生、ということは撮影現場で出くわす相手は十中八九うんと年上である。
 挨拶をするのが億劫で、少しずつこちらへ近づいてくる撮影者から目をそらし、ややあって視線を元に戻すと、アレッ、いない!
 最初に考えたのは「ははあ、あの辺りから海岸へ降りられるらしいな」ということ。ところが、その地点へ行ってみても急斜面が海へ落ち込んでいるだけである。
 背筋が寒くなるというほどではないけれど、オイオイ、かつてこの辺で撮影中に列車にはねられたヤツがいる、なんて言わないでくれよ、と思いながら撮影地探しを続けた。実は、先に挙げた西丸震哉氏の著作に、山歩きの最中こんな感じで幽霊と出くわした話があり、当時それを既に読んでいたのだ。
 この後、海岸へ降りる道をやっと見つけたものの、天候が崩れてきて望遠レンズの使用が難しくなり、途中で目をつけておいた地点に引き返そうとして道に迷い、その間に目当ての臨時客車列車が通過してしまうなど、散々の撮影行となった。
 なんとかフィルムを消費して岩代駅へ引き返す途中、跨線橋の周囲をもう一度ウロウロしてみたけれども、あの重装備撮影者が何処へ消えたのかは分からずじまいであった。
 時は流れて2003年、思いがけない形で謎が解けた。
 この年の秋、山陰地区で余剰となった急行型気動車を活用し、二日間限定で急行「きのくに」が復活、なにしろ幼い頃何度となくお世話になった列車だから、撮影地を厳選して珍しくもイベント列車目当てに現地へ赴いた。こちらの年齢は30を越え、社会人としていくらかの経験を積んだ後だから、撮影地で居合わせた連中と「かつての有名撮影地が今はどうなっているか」という情報交換をするのが非常に愉しかった。
 ある人が、初日の便を南部-岩代で撮った、EF58ブームの頃と比べると云々、と言ったのをきっかけに、筆者は以前から気になっていた「雑誌でよく見る、どこから撮ったのか分からない岩代-切目の構図」について訊ねてみたところ、
「ああ、あれはねぇ、線路際に突き出した岩によじ登って撮るんですよ。犬走りを歩かないと行けないので、今は立入禁止なんじゃないかな」
 幽霊の正体見たり、とはこのこと。海岸へ降りる道しか念頭になかったのが、岩の上によじ登るルートがあったのである。視界から消えた撮影者は筆者の頭上にいた訳だ。
 ごく常識的な形で解明されたのは、ちょっと残念な気もした。
 いい機会だから公表してしまおう。物心ついてから40年ばかりの人生で、2回だけ不思議な予知体験をした。「私など神も仏も信じない人間であるが」という宮脇俊三氏でも一作だけ不可解な体験を記しておられるので(「感度の話」/新潮社刊『旅は自由席』に収録)、誰でも一生のうち一度や二度は出くわすものなのかもしれない。
 一回目は時代をぐうッと遡って「中学受験」のときのこと。
 当然、進学塾に通っていた訳だが、これが今から考えても相当に猛烈なカリキュラムで、毎週日曜日に模擬試験をやって終わるや否や解説と対策、加えて夜の講義が週に二回というところだった。講義の方は「ナントカ社会体育専門学校」なるところの教室を二つだけ借りて行われたが、模擬試験はいくつもの学区をまとめるらしく、もっと大きな学校を丸ごと借り切っていた。3校くらいグルグル回す感じで、そのうちの一つが、やがて実際に受験するS学園だった。
 何度か校門をくぐるうち、小学6年生であった筆者の心に、
「ああ、来年4月からここへ通うんだなァ」
 という意識が強く芽生えてきた。誤解を避けるために強調するが、これは「憧れ」とは異質で、ボロい校舎だなァ、とか、朝のラッシュ時に電車で通わなけりゃいけないのか、とか、狭い運動場だなあ、斜めに走っても50メートルないぞ、なんていうむしろネガティブなもの、強いて譬えれば、銀行の支店が離れたところへ移転して「4月からはあそこまで歩くことになるんだなァ」という感覚に近いものだった。
 ところが、受験が終わって蓋をあけたら不合格通知。
 もともと模擬試験の結果からギリギリの学力なのは分かっていて、悔しさもそう強くはなかったのに、「4月からあそこの学校へ通うんだなァ」というのが消えない。何かで行ったことのある地元公立中学校の方は、他所の家みたいな感じがして仕方がない。
 さらに数週間後、舞い込んだのが「補欠合格」の報せ!
 あの感覚は何だったのか、今もって分からない。蛇足ながら、もしかしたら大学受験の結果も予知できるのでは、と密かに期待して、試験の手応えが良好だった帰途、やたらと学内をキョロキョロ見回してみた結果は……全く何も感じない。「案外と点数が出ないのか」という意味で不安になりかけたけれど、これは幸い杞憂に終わった。
 それからかなり年月が経って、もう社会人だったある早朝のこと。
 フセイン政権という重しがなくなって逆に混乱状態となっていたイラクで、日本人が武装グループに拘束されるという事件があった。部族のリーダーだか宗教指導者だかを通じて当人と連絡がついた、いや誤報だ、と情報が錯綜していたとき、普段の起床時刻よりかなり早く目覚めた筆者の脳裏に、
「あ、あの日本人、解放されたんだ」
 という思考が浮かび、再び眠りに落ちた。実際に解放された時刻までは分からないが、少なくとも「解放、無事を確認」という報道がなされたのはその日の午後だったと思う。
 こうして文章化してみると、特に後者は「なんとなくそんな予感がしたけど、気のせいか」という大量の誤報(?)の中にまぐれ当たりが出た、というだけのことにも思えてきた(四六時中いろんな予感が湧いてくる訳ではないけれど)。
 少し話が変わって、数年前のこと「(親の)体験が次の世代へ遺伝することが動物実験で証明された」というニュースが流れた。これは、動物……特に鳥が好きな人なら経験的に知っている筈だ。だって「そうでなければ説明が付かない」から。同じ"里の鳥"でも、ヒトに対して鳩は図々しく雀は神経質だし、渡り鳥に餌付けをすると、同じガンカモ科でも鴨は図々しく雁は神経質である。筆者など、へえ、今まで仮説だったの、という驚き方をしたものだ。親の行動を真似て……というのには無理があって、親鳥より俊敏である訳がない巣立ったばかりの幼鳥が常にワン・テンポ遅れて逃げ出していたのでは、天敵に片っ端から捕まってしまうだろう。
 5~6年前辺りからか、都市部の雀にヒトに対して図々しい個体が目に付くようになってきた、という情報を耳にする。農作物を荒らす、というので散々ヒトに苛められてきた遺伝情報が、特に都市部ではついに薄れてきたということらしい。これも、生まれてから親に教わるとしたら変化の表出が遅過ぎる。
 しかし、科学的手法を以って証明された……とすると、じゃあヒトはどうなんだ、ということになる。
 ここからは素人の勝手な推測だけれども、文明を手にした後のヒトとなると、データがあまりにも膨大になってごく断片的にしか遺伝子に乗ることが出来ず、次世代の脳には解読することが不可能である、というのはどうだろう。
 だからこそ、稀に断片が組み合わさって脳に解読可能な状態が出現、
-前世の記憶ダァ。
 という話になりはしまいか。
 何年かぶりに西丸震哉の『山とお化けと自然界』を読み返した影響で、今回は少々アヤシゲな題材となった。

蛇足。話を書き終え推敲を進める段階になって、2003年に撮影地(紀伊田原-古座の「古座ヴィラ」)で聞いたのは岩代-切目ではなく南部-岩代だと気が付いた。といっても、問題の撮影者はやはり頭上にいた、というのが正しいのだろう(消去法)。冗長になりそうなので本文中では「駅の方角から」で済ませたのだが、実は岩代駅から線路際を切目方へ歩くと、単線時代の橋梁跡にぶつかって行き止まりとなる。ダイヤを確かめてごく短い現役の橋梁を渡ってきたのか、筆者が来た経路と同じ人道橋を通って橋梁跡を見に、または撮りに行って引き返してきたのか。想像力だか創造力だかを働かせると、相手の視点からすれば「なんだ、あの一眼レフ持ったガキは? うっとおしいからとりあえずこの岩の上で構図を探してみるか」……おっとっと、久々に同人誌作家時代の習性が出た(苦笑)。

 

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