ある台車の謎
1991年に廃止された岡山県の同和鉱業片上鉄道に、キハ800という形式の20m級大型気動車が2両いた。秋田県にあった同社小坂鉄道から移転してきたもので、もとはキハ2100形を名乗っていた車両である。廃止まで数ヶ月となった片上鉄道を訪ね、終点柵原駅で「終着駅らしい」構図を探してこの気動車の先頭部を左隅に少しだけ写し込み、カメラを下ろしたところで、妙なことに気が付いた。
当時の写真から判断してキハ802号だったと思われるが、車両の隅っこにある自重やら定員やらを示した標記に「形式・キハ2100」とあるではないか。
「あれ? 何だこれは」
疑問を抱いたものの、「情景派の撮りテツ」が趣味の主体であった筆者はあまり深く考えようとしなかった。
かなり後になって知ったことだが、正式な形式名称といわゆる車番が一致しないのは珍しくないようで、「江若鉄道」ではC-28SM形のキハ5121号とかC-18形のキハ24号とか、体系そのものが違っていたらしい。もっとも、片上鉄道の方はいつの時代の書籍にもキハ800形としか書かれていないから、現場で車体を塗り直す際に「元あった標記をそのまま」にしてしまったものと考えられる。
年齢を重ねた今だからこそ「いつの時代の書籍にも」なんていう書き方が可能な訳で、学生時代に鉄道研で機関誌の編集を担当したときには随分と苦労をさせられた。
問題になったのは野上電気鉄道(和歌山県/1994年廃止)末期の主力車両「11・12・13」、書類上の形式デ10。
もとは富山地方鉄道で軌道線と鉄道線(笹津線・射水線)の直通運転用に造られた車両・デ5010形である。もと阪神電鉄の戦前製電車が原型に近い車体を維持して平成の時代まで走っていた野上電鉄では、10形が唯一の戦後製、趣味的にはこれが走っていると「ハズレ」ということになってしまい、朝夕の通勤通学時間帯に旧阪神車*が走る光景ばかり追いかけていたものである。雑誌の記事でも10形に関する情報は少なかった。(*23号のみ旧阪急車、床下にトラスロッドを持つ最後の営業用電車だったと思われるが、廃線の3年ほど前に運用を離脱)
しかし機関誌を作るとなれば、趣味上の当たり外れとか好き嫌いなどと言っていられない。もっとも、その昔は富山地方鉄道と線路が繋がっていた「加越能鉄道」に除雪用として5022号が残っていることは知っており、車両諸元の大部分は手持ちの『私鉄の車両10・富山地方鉄道(保育社)』から引用し、移籍時の改造で変化したと考えられる自重は現車標記を調べれば済む、と何の心配もしていなかった。それで、いざワープロに向かって車両諸元表を作ろうと本を開いたところで、掲載された写真に唖然呆然、
「ワーッ、台車が野上の10形とは違う!!」
仕方がないので、最初からあまり協力的でなかった会社に返信用封筒はもちろんアンケートみたいな「回答用紙」まで同封して問い合わせてみたところ、返ってきたのが「台車:愛知富士産業」という答え……。
途方に暮れていたら、ある先輩が「役に立つかどうか分からないけど」と言いながら手持ちの古い書籍を見せてくれた。まっ先に「車両諸元表」を探し、富山地方鉄道の項を調べたら、あった! 5022号の台車とされている「W-1-10」とは違う形式。
これで問題解決、と思いきや、掲載写真を確認して再び唖然呆然、写っている電車の台車は野上11~13ではなく加越能5022と同じもの……。
恨めしい思いで『私鉄の車両・富山地方鉄道』の方を眺めていたら、内容に矛盾があるのに気が付いた。デ5010という数字から想像が付くように、デ5000という一回り古い形式があり、「思い出車両」として取り上げられているのだけれど、解説文に『台車はW-1-10をはいている』とあるにもかかわらず、写真は野上11~13と同じ台車になっているではないか。さらに巻末の形式図でも「加越能デ5010」の台車は野上11~13と一致している。
これは何らかの理由で加越能5022は書類と現車の台車が異なっている、という結論を出し(市販の書籍は「W-1-10」の横並び、野上10形は台車の項が空欄になっていたりして苦笑を誘う)、かなりの自信をもって車両諸元表に野上10形の台車はW-1-10と記した。さらに、市販されている書籍や雑誌に不信感を抱いたもので、つい「難儀やなあ」という感じで、早くから気になっていた点に関してボヤキ節の原稿を書いてしまった。
『現在主力となっている、富山地方鉄道からやってきたデハ10形であるが、これもデ5010という元の形式のためか、デ10形と記されていることが多い。実際に車両を見ると、車端部にきちんと「形式・デハ10」と書かれていた』
というものである。三十年も前のことだから記憶が定かではないけれど、中学生の頃にまず現車標記から「あれっ、この3両だけ『モハ』じゃなくて『デハ』なのか」という発見をし、10形だけが1970年代後半に富山地方鉄道から移籍した新参車両であるということは後から書物で知ったのだと思う。デ10という活字を見て、ごく早い段階から「おかしいな、現車にはデハって書いてあった筈だぞ」という疑問を抱いていた覚えがある。
苦心の車両諸元表について特段の反響はなかったのだけれども、「形式・デハ10」の記述には驚いた購読者がおり、近年廃刊となったローカル鉄道誌に問い合わせの手紙を送ったらしい。もしくは、全国誌にも送ったが反応を示したのが当該ローカル誌だけだったのかもしれない。
その「反応」というのが、要旨は『車両竣功図に記載されているのはデ10。つまり書籍雑誌に記述されたデ10の方が正しい。外注のペンキ屋が間違って書いたのだろう。こっちは何回も通って資料を見たり担当者から話を聞いたりして記事を書いてるんだぞ』というもの。
へえ、何回も通った割に現車標記が違っているのに気づかない、あるいは現車標記などハナから相手にしていない、それでいいのか? と二十年以上経って読み返しても疑問を感じてしまう。何年もの間、もしかすると移籍から廃線までの18年間、その気になれば乗客の誰もが見られる車体標記が「デハ10」だったというのは動かし難い事実なのだ。ペンキ屋が間違えたのだろう、という推測も甚だ乱暴で、外注なら仕上がりを確認するのが会社の責務である筈。要するに「シロウトが間違えるから俺たちプロが迷惑を被る」という筋書にしたかったのか。未だに筆者は問題の3両について「デ10」と記すときには「書類上の形式」という注釈をつけてしまう。たいていは10形とか11~13という書き方でも用は足りる。そもそも、廃線のときまで社員は誰も「間違い」に気が付かなかった、または気付いても直さなかったということは、何のためにあるのかねぇ、あの標記は。
ひとつ言い訳を記すと、機関誌を編集した当時の筆者は当然ながら20代になったばかりで、趣味暦は6~7年といったところ。限られた経験の中、「鉄道ファン」誌のある記述から半ば無意識のうちに影響を受けていた。以下にそちらを引用する。
乗った車両はサロ481-130改造のクロ480-15でクロ480のラスト・ナンバー. 配置区は車端を見ると鹿カコ, たしか61-11改正で門ミフに転属しているはずで, まだ標記変更していないようだ. というわけで, 上の表中には現車の標記を尊重して鹿カコとなっています. 「鉄道ファン No.313(1987年5月号)」"最後の国鉄ダイヤでぐるっと日本一周"より
これが、書類と現車が食い違うときは現車の標記を優先してよいのだ、という思い込みを誘ったのである(蛇足だが、引用しようとして初めて、同誌の句読点がピリオド、コンマ使用になっているのを発見)。全国誌は委嘱原稿も多く編集姿勢を示すための引用には注意が必要ながら、国鉄時代の風物詩だった「全国ダイヤ改正時の車両大移動」ルポ中に、盛アオじゃなくて青アオと標記した電源車を一両みつけた、という記述や、改造工事が短期間に集中しての混乱か、書類上クロハ481形である筈の車両がクロハ480の車番(これは車体中央の切り抜き文字も含めて)で出場した、という報告もある。対象が国鉄であれ小私鉄であれ、現車標記なんかいちいち知るもんか、という姿勢はどう考えてもおかしい。
そのローカル鉄道誌が、これが証拠と言わんばかりに車両竣功図のコピーを載せていた。そこに「台車・富士産業」の文字が見える。会社の返答もある意味で誠実だったのだ。「車両竣功図がこうで官庁への届出もこれだから」という論法を振り回すなら、世に現れたとき与えられた型番が何であれ、野上10形の台車は「富士産業」が正しい……ということになって、これは何やら今世紀に入って流行りだした言い回し「思考停止」の典型例という気がする。
想像するに、富山地方鉄道側の竣功図で台車が現車と一致していないため(現車はみな同じなのに竣功図では台車形式が2種類あるとか)野上電気鉄道側としては処理に困り、車両メーカーの名前を記載して誤魔化したのではないか。なお、竣功図の床下部分というのはボギー中心間距離と台車の軸間距離さえ明示すればいいようで、たいてい床下機器や台車はなく車輪の位置に円が描かれているだけである。(写真と手持ちデータを見ながら車両側面図を自作した筈なのに、10形の台車がはっきり視認出来るコマが見当たらない。雑誌の写真を見ながら……だったのか。旧阪神・阪急車は旧南海の台車をはいており、今でも「ブリル27E1 1/2 」「ブリル27MCB2」という型番は覚えている。"2分の1"という奇妙な型番の由来はインターネットで知ることが可能なので、興味のある方はお探しあれ)
加越能鉄道に残った5022号は車籍を抹消されてからも機械備品扱いで除雪作業に従事し、世紀は変わり社名が万葉線となった後の2012年、とうとう寄る齢波に勝てず退役したそうである。これを書くに当たっていろいろとインターネット検索を試みた結果、「"デ5000" "台車"」と入れたところで「Rail Magazine」系の『台車近影』というサイトに行き着き、5022号の台車は「日立製KBD-8」であると判明! 車両の竣功図ではなく台車の図面を発見しての記述である由、まず間違いはなさそう。サイト内のテキストにデ5010の文字列だって出てくるにもかかわらず、"デ5000系"という記述を拾うまで見つけられなかったのは検索エンジンの怪。一方『デ5010の台車は一般に「K-10」と書かれていることが多い』という妙な記述があり(後記。2018年に「W-1-10」へと修正されています)、クリッカブルになっている「K-10」を開けてみたら出てくるのは低床のいわゆる路面電車ばかり、構造は似ていてK-10系の高床用がW-1-10だったりするかもしれないので迂闊に誤記とも書けず、どうもスッキリ解決してくれない(苦笑)。
ともあれ、やはり野上10形の台車は「W-1-10」であった可能性が高そうである。
付記。ウィキペディアには「11号のみ形式デハ10の表記があった」と記述されているけれど(2017年時点)、例のローカル鉄道誌が読者に指摘されてからやっと現車を確認に行った(!)という「形式・デハ10」標記のクローズアッブ写真に「12」の車番が大きく写っている。何度か塗装のやり直しが行われているとしても、デ10標記とデハ10標記を行ったり来たりした可能性は低いだろう。個人的に「ウィキペディア」は好きになれないので(他に情報源がないときは仕方なく参考にする)触らないことにしている。
筆者自身、機関誌を編集した1991~92年は何度となく現地へ足を運び、気になっていた「形式・デハ10」の標記は機会あるごとに確認した筈である。ただ、11号ヨシ! 12号ヨシ! 13号ヨシ! とまでやったかどうかはもう覚えていない。「形式・デ10」標記のクルマがいたとは考えにくいが、今となっては判断のしようがない。
蛇足の蛇足。実家の本棚を片付けていたら問題のローカル鉄道誌が出てきたので、遠い記憶を辿ってみた。別に二十年以上根に持ち続けていた訳ではない。とはいえ、思い出してもやっぱり不愉快ではある。
予想より字数を食ったので本文中では触れなかったが、冒頭に挙げた小坂キハ2100→片上キハ800には「空気バネ台車をはいている」という誤記がいろんな書籍に出てくる(……と思ったら著者がどれもT.h氏)。固有名詞である形式称号と違い、現車を見れば金属バネ台車*であることがすぐ判明する話なのだ。これでは車端の形式標記にまで注意が及ぶ筈もない。ローカル私鉄研究で現車の調査を軽視する風潮があったとすれば、昇圧前の「上田交通」がそうだったように各車両の経歴があまりに複雑で、現車を観察するだけではろくに何も分からない……という時代の名残なのだろうねぇ。(*形式は動台車NA-6A、従台車NA-6AT、ほぼ同一の車体を持つ関東鉄道キハ800形の空気バネ台車はNA-305/NA-305Tで各書齟齬ナシ。参考までに)
バックナンバー目録へ戻る際はタブまたはウィンドウを閉じて下さい