Kai-chan 死にかかる

もしかしてコロナ?
 2021年の暮れ、亡き父の相続手続きが一段落してひと息ついた辺りから体調に異変を感じていた。どこがどうということはないのだけれど、何となく元気がない。仕事は普通にこなせても、自由な時間を楽しめない。もしかして武漢ウィルス(コロナ)に罹かってしまったか、と不安を覚える状態で2022年に入ってから、はっきりと便秘の症状が現れた。
 3日続けて便通がなてというのはそれまで経験がなく、危機感を覚えて近くの胃腸科病院へ行った。聴診の結果は、
「うーん、腸は動いているようですけどねえ」
 処方して貰った薬を服んでから、少しずつ便通が復活、いずれドカンとまとめて排泄出来ればスッキリするだろうと楽観していたら……

救急搬送と誤診と
 1月13日の午後であった。下腹部に激痛が走り、これはただ事でないと直感、身支度を整えようとして病院へ自力で行ける状態にないと思い知らされ、やむなく119番通報。最初に運ばれた病院でレントゲンとCTを撮った結果、腸に「閉塞」は見られないとのことで、胃の内容物は鼻からチューブを入れて排出、下からもなんとか排泄を促そうという治療を始めたものの、頑として出ない。これ、何かおかしい、という言い振りで再検査の結果、
「捻転を起こしとるかもしれん、ウチじゃ無理だ」と、別の病院へ移送されることになった。
 武士の情け(?)で誤診した病院名は伏せる(結果的に「捻転」も誤診だった)。

覚悟しておいてくれ
 転送された病院での検査結果は「S字結腸が破裂、緊急手術を要す」で、書類はすべて医師による代筆、すぐさま手術と相成った。危険過ぎるからなのか、全身麻酔ではなく、意識が遠のいたり戻ったりして長い長い手術となり、色んな幻覚や幻聴に苛まれて手術後の記憶は曖昧である。覚えているのは、意識がはっきり回復してから聞いた主治医の第一声。
「人工呼吸器が必要となっても不思議はなかったし、もう大丈夫とはとても言えない」
 親族が呼びつけられ、医師からこう告げられたそうな。
「何が起こるか予測の付かない状態だから、覚悟だけはしておいてくれ」
 破裂した箇所は伸びきった風船のような状況で縫合しただけでは使い物にならず、少なくとも一年間は人工肛門による排泄、経過観察の結果次第で「元の肛門に戻せるかどうか」判断するとのことであった。

再起動に失敗
 手術後、とりあえず容態が安定したとき、医師数人がベッドに現れた。一人が聴診器を下腹部に当て、やがて無言のまま他の医師に向けて親指を立てて見せた。「腸は動いてる!」
 ところがである。
 鼻から胃へ入っていたチューブを外し、口からの栄養摂取再開第一歩として液体の「栄養補助食品」を飲み始めたら、数日で腹に張りを感じ始め、鼻チューブに逆戻り。しばらく間を置いて再度試みたら、液体は無事に消化されることを確認したものの、固形物に切り替えたところでまた腹が膨れ、手術から3週間経っても点滴と液体栄養補助食品で命をつないでいた。
 主治医によれば、
「原因が分からない。そもそも、単なる便秘が原因で腸が破裂したりはしない」
 このまま退院できずにあの世へ行っちまうのかなぁ、と妙に冷静に考えている自分がいた。

謎の高熱
 手術後に運び込まれた「HCU」で1週間ばかり、何とか危機的状況を脱したころから謎の発熱が始まっていた。点滴に解熱剤を追加すると一旦は36度台に下がるものの、その効力が切れるとまた38度台へ、一度などは40.8度を記録して悪寒戦慄が出た。
「血液検査のデータは日を追って改善してるのに、なんでかなぁ」
 医師に首を傾げられるのが患者としては最も困るのだけれど、原因となりそうなものを一つ一つ止めたり変えたりするうち、主治医が英語の論文を見つけてきた。注意すべき持病がアトピー性皮膚炎、症状が高熱と悪寒戦慄、というのが合致するという。原因と目される抗生剤の種類を変えたところ、ようやく熱が下がり始め、3週間に渡ったHCU暮らしが終わった。

HCUの主
 本来、HCUは手術直後(直前の人もいた)に短期間収容される部屋である。隣のベッドは次々に患者が入れ替わったが、2月に入った辺りから、なぜか室内が日に日に静かになっていった。
 何かの機会に看護婦から事情を聞くことが出来た。
 娑婆(?)ではコロナの感染状況が悪化しているため、病院は救急を含む新規の入院受け入れを停止、手術をする患者がゼロという日が続いているためHCUも出入りがほぼなくなっているという。お蔭で、本来なら許されない携帯電話の音声通話が許可され、仕事上の関係先に片っ端から電話をかけて入院・手術を報告、会社の業務への影響を最小限に留めることが出来たのは不幸中の幸いであった。しばらく声が聞こえていた容態のよくない患者が一般病棟へ移り、5日間ほどHCUは筆者専用だったので、今にして思えばこれも貴重な体験である。

 一般病棟と違い、HCUには患者ごとのテレビはない。床ずれ防止のため定期的に丸めた寝具を使って身体を「斜め(管がつながっている関係で横向き寝は不可)」にするほかは仰臥したまま。外が暗くなってきて、反比例するように照明が眩しくなる、午後10時に蛍光灯が消えて夜間用の黄色い照明になる、室内が明るくなってくると朝……ただただその繰り返し。とてつもなく長い時間であったけれど、それを的確に描写する能力はなさそうだ。

心に凍みたグリーグ(追記)
 HCUに収容されている患者が二人になった時期、看護婦が「今、人数も少ないのでラジオでもかけましょうか」と言ってくれたことがある。最初は断った(もう一人は時々かけて貰っているようだった)。しかし何日かの後、ああ、今日は日曜日だな、と気づいて看護婦を呼んだ。
「あの、ラジオってFM入ります?」
「入りますよ」
「NHK-FMをかけて貰えますか」
 19時半頃の『ブラボー・オーケストラ』が始まろうとする時刻であった。その日はグリーグ・プログラム。ピアノ協奏曲とペール・ギュントの組曲を聴くことが出来た。
 状況が状況だけに、しょぼくれた音質が心に染みた。同時に、心の傷に凍みるものがあった。もう、ちゃんとしたオーディオで音楽を聴くこともなくお陀仏かもしれない、という可能性がまだ消えていなかったから。
 忘れていた訳でもないけれど、退院から時が過ぎ、マーラーや現代曲が聴きたくなるところまで気力が回復してからようやく文章化が出来た。

立てない
 リハビリは、まだ管やら線やらが身体につながっていた段階で、ベッド上で寝姿勢を変えてみる……という動きから始まる。その管が少しずつ減ってきて、ようやく、
「立ち上がってみましょうか」
 やってみると、数秒でふくらはぎがブルブル震えだし、
「歩けそうですか?」
「いや、歩行器がないと無理みたいです」
 手術からひと月も経っていなかった。数週間の寝たきり(加えて飲まず食わずの点滴頼り)だけでこれだけ筋力が弱るとは……。
 これは大変だ、と先行を案じたけれども、立ち上がりの訓練を始めてからは回復が早く、歩行器頼りはごく短期間で終わった。

右目の異変
 漢方薬の力を借りて腸を動かしにかかったのが少しずつ功を奏し始め、ようやく意識がお腹以外にも向きだして、目の異変に気が付いた。右目がほとんど見えていない(濃霧がかかった状態)。看護婦によれば、黒目全体に白く幕が張ったような症状だそうな。今度は院内で眼科通いをすることになった。
 検査の結果、幸い眼底に異常はなく角膜表面だけの症状だという。
 -これ、治るのかなぁ。退院出来ても、写真の趣味は終わりかも……
 手術からひと月以上が過ぎたのに、この先どうなるのか何の見通しも立っていなかった。

人工肛門
 名称を聞いたことはあった。詳しく知りたい向きには検索していただくとして、要するに腹から腸が突き出しているようなシロモノ、便意のコントロールは利かないので専用の便袋(装具)を貼り付ける。一杯になると中身を処分、4~5日毎に装具そのものを新しいものと交換しなければならない。退院後はそれらを自力でやる必要があった……が!
 ここで初めて看護婦の口から「退院」の語句が出た! 2月が終わりに近づいた頃だった。
 未だに不可解なのだけれども、袋(装具)の中身を捨てる「便ハキ(吐き? 破棄?)」の方法については、具体的な要領が定まっておらず、それぞれ好きなようにやれ、というに尽きた。筆者の住んでいるマンションではペットを含め排泄物はトイレに、が管理規約上の定め。トイレに流すにはどうすればよいか、という問いに対し、看護婦は回答例を持ってはいなかった。
 病院内のトイレで色々と試した結果、便器前にひざまづくと適度な高さに装具を持ってこられることが分かった。
 残る課題は装具の交換(貼り替え)だが、筆者は首を手術しており可動域が極度に狭くなっていること、鏡に写しながらやろうとすると右目が利かず距離感の把握が難しいことが障害となった。

卒業試験
 主治医から「今のあなたは病人ではなく(手術痕の治療のみ必要な)怪我人です」と太鼓判を押して貰った頃から、退院後の暮らし……つまり人工肛門との付き合い方が喫緊の課題となった。決め手は意外にも"目"。院内移動の眼科通いが功を奏して右目の視力が回復すると、鏡の前に立ちさえすれば自力で装具を交換するのもさして難しくはなかった。
 かくして、主治医から『治療はひとまず終了、看護婦に「自力で装具交換が可能」と認定して貰うことが「卒業試験」になる』とのお達しを受けた。
 数日後、その卒業試験(看護婦の見ている前で助けを借りず装具を交換して見せる)を難なく通過して、2ヶ月近い入院生活が終わった。

原因は不明
 退院後の通院時に、手術中に採取した組織の検査結果が出た。
『目に見えないような癌がある訳でもなく、なぜ腸が破裂するほどの異常な便の滞留が起きたのかは不明』
 難儀やなあ(息)。

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 首のときと違ってつまらない報告だなぁ、と感じた読者も多かろうと思う。今回は「リアルタイムで綴った日記メモ」などない。精神的にそんな余裕がなかったのである。一般病棟に移ってしばらく経った頃、ようやく「テレビでも見るか」という気力は回復したものの、ストレスを避けたくてトラベルミステリーとか旅番組の類しか見なかったもので、ちょうど入院中に始まった「ロシアのウクライナ侵攻」はリハビリ担当の医師から知らされた(会話をしながら歩くという訓練で)。
 2023年2月に計画入院・再手術をして人工肛門とおさらばしてから、やっと病床記を残そうという気持ちが芽生え、記憶を頼りにまとめてみた。
 再手術の後はほとんどトラブルなくHCUは24時間で脱出、管や線も順調に外されていき、2週間で退院することが出来た。腸がかなり短くなってしまったとのことで元通りの食生活とはいかないものの、「毎日風呂に入れる生活」がこんなに快適なものか、としみじみ感じている(装具は一部が布製なので交換日以外全身入浴は不可)。

 

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