追悼・宮脇俊三

 筆者は活字人間である。長らく創作活動に使ってきたワープロの半額という価格にとうとうパソコンを買い、早速このような個人サイトを創設したにもかかわらず、パソコンに向かうのは長くて1日に2時間、多くは数十分である。これには、ブラウン管のモニタは目を疲れさせるため、いまだに長い文章はワープロ専用機で打っているという事情もある。実はこのコーナーも、ワープロ専用機で文章を打ってからフロッピーディスク経由でパソコンに流し込むという、奇妙なことをやっている。(友人には「ノートパソコンを買え」などと言われているが)
 いきなり話があさっての方向を向いてしまった。
 訃報というのはたいてい突然やってくるものだから、既に仕上がっているページを翌月に回して「追悼記事」を書こうとしたら更新予定日は目前。何から書いていいものやら分からず、大きなものを失ったような気がして頭が回らない。
 筆者の蔵書を冊数の多い順に並べると、上位は次のようになる。
(1)北杜夫・63冊 (2)畑正憲・42冊 (3)宮脇俊三・41冊 (4)松本清張・37冊 (5)阿川弘之・29冊 (宮脇俊三の数字に「編著」は含まず)
 純文学の書き手を志しながらこれでいいのか? という気がしないでもないけれど、畑正憲はほとんどが小中学生のころ貰ったり買ったりした文庫本で、今から集めようとしても絶版だらけで4分の1も揃うまい。それはともかく、松本清張を除いた4人には相互につながりがあって、畑正憲は北杜夫の信奉者だし、宮脇俊三は北杜夫の隣人であり、阿川弘之も北杜夫と親交がある。それに、宮脇俊三はかつて編集者として北・阿川両氏の著作に数多くかかわっている。
 要するに、作中によく名前が出てくるけど、この人はどんな文章を書いてるんだろ? という具合に広がっていったのだが、宮脇俊三だけは、まったく違うきっかけで集めだした。調べてみると、初めて買ったのは1989年の『車窓はテレビより面白い』(単行本・徳間書店)で、北杜夫の主要純文学作品などはとっくに揃えた後、つまり「文学づいた」ずっと後である。最初に本を手に取ったのも、確か「鉄道コーナー」ではなかったか。
 鉄道は鉄道、文学は文学で、趣味としてばらばらに付き合ってきたため、年少者向け「鉄道もの」の編者として宮脇俊三の名を幾度も目にしてはいても、それをひとりの作家として捕らえる機会がなかったのである。
 知らぬが仏……というと変だが、北杜夫の紀行文『どくとるマンボウ航海記』単行本を担当したのも、阿川弘之の紀行文『山本元帥! 阿川大尉が参りました』のタイトルを考えたのも、編集者・宮脇俊三だと知ったときには本当に驚いた。筆者の文学受容には、早くから常に「宮脇俊三」がついてまわっているではないか。(画像にはあえて編集者・宮脇俊三の遺産を掲載)
 考えてみると、宮脇俊三の著書と出会わなかったら、本格的に自分で文章を書いてやろうなどとは思わなかったかもしれない。もともと文章を書くのは好きだったところへ、目の前で文学と鉄道が結び付いてしまったもので、書きたい「ネタ」が次から次へと現れるようになったのだ。「文学はインターネットに乗り得ないもの」との我ながらカタクナな信念から、紀行文を含め文学的なものはなるべくこのサイトに載せないようにしているけれど(残念ながら例外あり)、一応、これまでに書いたフィクションは原稿用紙に換算すると1,000枚を越えている。実をいうと、十代の頃は紀行作家を夢見ていた。ところが、あいにくと筆者は体質上および健康上の理由からアルコールはてんで駄目だし温泉も苦手である。酒と温泉の出てこない紀行文なんて、認められる筈がないではないか! 「未成年」でなくなってから、ようやくそれを実感した次第。じゃあ小説を書いてやれ、などというメチャクチャな発想で始めたものだから、弱小文芸同人誌の中で細々と活躍する程度なのも当然なのだろうな……。
 ともあれ、宮脇作品が「文学」としての品位を備えている以上、作者が他界しても作品は生き続けるに違いない。おそらく、昨今の、純文学と称する安普請よりも、長く後世に読みつがれていくのでは……と書いてしまうと、全国誌に相手にされぬ書き手のヒガミに見えるだろうか。
 後記。文芸同人誌は2006年限りで退会。詳細はこちら

 

HOME   最新号へ

バックナンバー保管庫へ戻る際はウィンドウを閉じて下さい