もっと論理的に

 まだ10年は経っていないと思うが、確か新潟県柏崎市で、小学2年生のときに誘拐された少女が18歳になってようやく保護されるという事件があった。その直後、所轄警察署長(だったと記憶しているが役職には誤りがあるかもしれない)が勤務終了後に温泉旅館に行ったとしてマスコミの批判を浴びたことがある。
 このとき、何がそんなに問題なのか、筆者はどうしても理解出来なかった。
 被害者は保護され犯人の身柄は確保されている。事件の全貌がまだ解明されていないとはいえ、その捜査活動は緊急を要するものではない。一方、警察署長であろうと誰だろうと、勤務終了後は一個人であり、温泉旅館に行くのはその人の自由である。いったい何がいけないのか?
 JR西日本・福知山線で起きた脱線事故の後も、そっくりな現象があった。
 事故当日、同僚が集まってゴルフをやったのがけしからん、宴会をやったのがけしからん、ボウリング大会をやったのがけしからん……
 このうち、ボウリング大会は天王寺車掌区というから事故現場に近すぎ、その気になれば救助活動の支援にすぐ飛んで行ける距離だったという点で、批判されても仕方がないのかな、とは思う。
 しかし、福知山支社やら金沢支社まで一緒にして槍玉に挙げているのは理解に苦しむ。原則として、業務を離れればプライヴェートの問題であり、所属する企業とは切り離して考えるべきだ。
 職場単位での集まりだから問題だというなら、非常におかしなことになる。
 前々から約束していたので、他社に勤める異性とテーマパークに行った……これはプライヴェートだから構わない、前々から予定されていたので会社の同僚が集まってゴルフ大会を催した……これは「事故を起こした会社」だからけしからん。要するに、同行する相手によって問題が生じたり生じなかったりするというのだろうか?(個の尊厳、という文句が叫ばれるようになって久しいが、現状は自己中心的な人間が増えただけで、本来守られるべき「個=プライヴァシー」は一向に尊重される気配がない。業務とプライヴェートのけじめをはっきりさせておけば、不正の温床となる「接待」なんていうものは、それ自体が成り立たなくなる筈だ)
 業務中にミスをした運転士が会社の指示で「反省文」を書かされていた、と批判的な記事を載せている読売新聞が、JR西日本の現役運転士が新聞社に寄越した「反省文」を好意的に掲載しているのは実に滑稽である。
 新聞雑誌がとんちんかんな批判を展開することによって、事故原因の解析状況は正しく伝えられないし、中国政府が自国民に対して行っている思想教育に似た効果をもたらしてJR西日本の現場社員に暴言を吐く馬鹿が出てくる。なにしろ、事故列車の車掌より社長の方が悪いという論調まで見受けられるのだから。問題の車掌は週刊誌の取材に応じ、企業体質の批判を展開しているようだ。ここに至っては保身と責任転嫁というしかない(今の現場社員は誰も大きな事故を経験していない筈で、予想外の事態に動転したのは頷けるとしても)。もしかすると、取材をし記事を書いている方たちは車掌用の非常ブレーキ弁(後部運転台のブレーキ・ハンドルは作動しない)が存在することもご存知ないのかもしれないが。
 JR西日本の社長が国会に呼ばれ、鉄道に関してろくに知識のない国会議員の質問を受けている。何か意味があるのだろうか?
 監督官庁が新型ATSの導入を義務づけるとか言っているらしいが、信号システムを理解した上での発言なのかどうか、これまた心細い。
 先日、中央西線を通ったので線路上のATS地上子を注意して見ていたところ、どうやらJR東海はATS−S系列(名称はST型だが西日本のSW型と同一)のまま速度照査用の地上子を追加しているらしい。大垣で「昼寝」している117系電車にはSTのみ搭載を示す車体標記があったから、東海道本線も同じと思われる。必要箇所に地上子さえ追加していれば、S系列だから安全性に問題があるとも言い切れまい。相当のお金をかけて速度照査用の地上子を増設してきたら、いきなり他社の事故をきっかけに「P型を設けなさい」ではJR東海もたまったものではなかろう。
 読売新聞は執拗なまでに「JR東日本では山手線に最新のデジタルATCを設置している」とJR西日本が遅れているかのような書き方をしている。山手線は他の運転系統とまったく線路を共有しない"独立鎖国状態"だから専用の運行システムが導入出来るのであって、京阪神の"ダイヤ過密線区"にそんなところはひとつもない。線形の全く異なる市営地下鉄を引き合いに出した「JR東西線はATCを導入すべきだ」という記事も噴飯物でしかなく、それならばJR東日本が最近、総武〜横須賀線の地下区間で保安装置をATCからATS−Pに変更したのもけしからんという論理になる筈だが、そんなことは書いていない(これも記者がご存知ないのだろう)。
 航空の分野でもトラブルが相次いでおり、こちらは「事故につながりかねないミス」が指摘されている(知識がないので、その指摘が論理的整合性のあるものかどうかは分からないけれども)。どういう訳か、より歴史の長い鉄道ではそのような態勢になっていない。前回このコーナーに書いたように、ATSの不備は尼崎事故以前に、宿毛事故の際にもっと指摘されてしかるべきだったと筆者は考える。新幹線の「ATC不作動事故」に筆者はゾッとしたが、新聞は反応しない。現実的にはほとんど安全を脅かさない「運転士の居眠り」には大騒ぎする癖に、である。お蔭で最近は新幹線に乗るのが怖くて仕方がない。
 新幹線のATCなんて、基本的な仕組は幼児向けの図鑑にだって載っている。新聞記者の知識水準がそれ以下なのは困ったものだ。
 何かトラブルが起こったとき、それが危険なものかそれほどでもないものか、若干の知識と論理的思考力があれば誰にでも判断出来る。新聞記者であれば、その「知識」にかかわる部分について専門家に助言を求めればよい。
 いざ事故が起こったとき、日本では「原因究明」よりも「責任所在の追求」に重きを置く傾向がある。このこと自体は新聞紙上でもしばしば指摘されているのに、一向に改まらない。
 これは一種の「国民性」であるようだ。
 どうも、筆者の「感覚」には日本人一般と相いれないものがあるらしい。なんでも、ユングによれば、精神病理学上の理論として人間は thinking type と feeling type に2分することが出来る由。作家の阿川弘之は『日本ではどうも feeling type の方が一般受けする。thinking type は数が少ないし、人に嫌われ易い。(「井上成美」新潮文庫)』と書いている。
 長からぬ人生経験を振り返ってみて、思い当たる節がないでもない。

 

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