紀伊中ノ島駅の謎
大阪から和歌山へ向かう快速電車が県境を越えて平地に下ると、紀ノ川にかかる長い鉄橋を渡る。そして車内に「間もなく終点の和歌山」と案内放送が流れる頃、窓外を流れ去るのが紀伊中ノ島駅である。このとき右手に注意していれば、築堤の下で直角に交わる形の、線路のないプラットホームが見えるだろう。これは、1972年に列車が通らなくなり、1974年には正式書類の上でも廃止となった「和歌山線・紀伊中ノ島駅」の痕跡だ。
和歌山市内に初めて鉄道が通じたのは思いのほか早い1898(明治31)年で、これが現在の和歌山線に当たり、終着駅の「和歌山」は当時の市街地北端に設けられた。その後あちこちから線路が伸びてきて人の流れ方が変わった結果、新参の「東和歌山」に駅名を奪われ、今は「紀和」を名乗っている。線路配置も徐々に旧・東和歌山を中心とする形へと変わっていき、「和歌山線」から紀伊中ノ島駅前後の数百メートルが消えて、旧・和歌山は完全に「紀勢本線の駅」となったのである。年表などでは「田井ノ瀬−紀和」の廃止と記されているのが普通だけれども、田井ノ瀬駅はずっと東に離れているので、線路が剥がされたのは両駅間の2割にも満たない。
紀和は国鉄末期に無人駅となり、行き違い設備も撤去されて(古い時刻表が信じられなくなるほど跡形もなかった)、大きな駅舎は荒廃しつつあったが、2008年10月に高架線が完成して面目を一新した。といっても、高架ホームから階段を下ってみるといきなりアスファルトの路面に出てしまい、コンコースも何もない。高架橋の側壁に付けられた「JR紀和駅」の文字だけが立派であった。
改めて旧駅舎の写真を見ると明らかに戦後の建築、大幅な改築の可能性を考慮しても疑いなく昭和の建物で、現在の駅施設(駅舎と呼べるものがない)は三代目というところらしい。"初代"は戦災でやられた可能性もある。
地上駅舎時代に降りたのは2002年の2月。このときは駅前のあまりの寂れ方に見とれているうちに時間が過ぎて、駅周辺を一回りしただけで電車に乗ってしまったが、今回は駅周囲がまだ工事中のため妙に居心地が悪く、その代わりに気候がよかったので、阪和線紀伊中ノ島駅まで歩いてみた。通過する度に和歌山線ホーム跡を確認する癖こそついていたものの、こちらには降りたことがなかった。
真新しい高架橋に沿って東へ進み、まだ踏面の鈍く光る"地上線"のレール(訪問の1週間ばかり前まで現役だった)を見ながら踏切跡を越えて線路の北側へ抜ける。廃止から34年を経た和歌山線跡の方は団地に取り込まれて判然とせず、新旧の住宅が並ぶ細い生活道路を5分ばかり歩けば、前方に阪和線の築堤が迫ってくる。
紀伊中ノ島の駅前に出て、筆者は思わず「アレッ?」と呟いた。
予想していたのと駅舎の向きが違うのである。
今の阪和線、開業時の阪和電気鉄道と和歌山線の交差地点に当初は駅がなく、全通して2年後の1932年にまず阪和側だけに「中之島」駅が開業(「阪和中之島」駅と記述した資料も多い)、続いて1935年に国鉄和歌山線「紀伊中ノ島」駅が設けられた、と手元の資料にはある。ところが、間違いなく昭和初期のものと思われる木造駅舎は阪和線にそっぽを向き、後から出来た筈の和歌山線ホーム(跡)に接しているではないか。
だから和歌山線ホームが撤去されずに残っている訳か、という点では納得出来たものの、駅舎の位置はまったくの謎である。
現存するのは「和歌山線・紀伊中ノ島駅舎」であって、阪和電鉄「中之島」駅舎は3年間だけ別の場所にあったのでは、と勝手な仮説を立ててはみたが、駅舎をもう一度よく眺めてみれば、どう見ても「国鉄駅」の意匠ではない(画像参照)。昭和初期に造られた国鉄駅は全国に数多く、当時の木造駅舎は共通の雰囲気を持っているものである。紀伊中ノ島駅舎はそれとあまりにもかけ離れている。これはやっぱり「私鉄の駅舎」だ。
いったいどういうことなのだろう?
ここは最も手軽に「廃線訪問」が出来る場所の一つなので、インターネット上には「紀伊中ノ島駅訪問記」が数多く公開されているけれども、筆者と同じ疑問を抱いたという記述は見つからなかった(書き手の年齢のせいか)。
考える得る仮説としては、以下の二つが挙げられる。
○和歌山線紀伊中ノ島駅開業時に、3年しか使っていない「中之島駅舎」を移築した。
○阪和電鉄中之島駅開業と同時に、和歌山線でも「仮駅」が営業を始め、3年後に正式な駅となった。駅舎は阪和電鉄が建設した。
仮駅説だと駅名が異なるのは不自然なので、移築説が有力だと思う。
時刻表を確かめもせず旧和歌山線ホームに佇んでいたら、乗るべき和歌山行の普通電車が頭の上を走り去った。阪和線をくぐった先(東)の線路跡には工場が建っており、その向こうにはもう和歌山線現役区間の架線柱が見えている。
そもそも、阪和電鉄はなぜ先行して単独の駅を設けたのか。
紀伊中ノ島から現・和歌山までは僅か1.1キロ。住宅街の中とはいえ、乗降客数は少ないようで、1980年代に線内ではまっ先に無人化されている。昔はどうだったかと想像してみても、西は旧・和歌山駅まで1キロに満たず(営業キロで0.8km)、北と東は今でも市街地から外れてしまう状況を見れば、和歌山線沿線から大阪への最速ルート形成 − つまり「接続駅」としての機能以外に、駅を設ける経営上の利点はありそうもない。ちなみに、和歌山線が「東和歌山」へ乗り入れるのは1961年になってからである。
和歌山線の駅が開業した後、阪和電鉄は乗換の便にわざわざ「特急」を停めたほどだから(「超特急」と紀勢西線直通列車のみ通過)、単独駅の3年間が事実上の「仮駅」だったと考えてもいいのではないか。初めからあえて現在の位置に駅舎を建て、国鉄側に「いつでもここに駅を作って下さい。ご覧の通り駅舎は出来上がってます」という意志を示した、と夢想してみるのも面白い。接続駅となってから、阪和電鉄が南海鉄道との統合を経て戦時国有化されるまで、駅舎はどちらが管理していたのかというのも興味深い点である。
本腰を入れて文献漁りをすれば何らかの記録は見つかるだろうが、さすがにそこまでする気にはなれないでいる。なお、駅名は阪和電鉄時代に「紀伊中ノ島」で統一されたようだ。
後記。一度駅前から眺めてしまえば、天王寺方面行電車内からでも駅舎の位置関係は簡単に把握出来るのだが、通過駅であるうえに曲線上のため見える角度がどんどん変わっていき、アレアレと思っているうちに過ぎ去ってしまう(通路の屋根を駅舎の一部と誤認して、「く」の字型の駅舎が建っているような気がしていた)。2011年春の改正で日中は快速も紀伊中ノ島へ停まるようになって、今はクロスシートの快速電車内からよく分かるようになったろう。
次号に「謎解き編」を掲載しています!
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2017年に再訪したところ、随分と様子が変わって
いた。まず駅舎内改札柵が撤去され……
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初回訪問時、PCとドライバソフトの関係で一時的にスキャナが使用不能だった上に、高
架化後の紀和駅を見に行くのが目的だったので、ケータイ・デジカメしか携行してません
でした。再訪時の写真はデジタル一眼なので画質に雲泥の差異が生じています(苦笑)。
旧和歌山線ホームも一部寸断されていた。撤去された
跡地が自転車置場になったため、本文中の写真と違い
駅前はスッキリ。ただ、快速が停まるようになって不正
乗車が急増したらしく、簡易型ではない自動改札機の
新設に加え、駅構内が柵だらけという感じで、雰囲気が
悪化……(県庁所在地駅の隣だからなぁ)
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