紀州の謎は江戸で解け

 このところ、時代の変化についていけなくなった。
 調査は困難を極めるだろう……と信じ込んでいたことが、何かの拍子にふと思いついてインターネット検索しただけであっさりと判明してしまう。初めからここを調べていればよかったのに、という「ここ」が浮かんでこないのは困ったものである。
 いったい何の話かというと、前回の続きで「紀伊中ノ島駅」の謎。戦前の、ちょっとした駅施設の変動なんぞ、今から調べようとしたって骨折り損のくたびれ儲けに終わるのが落ちだと思いきや、部屋から一歩も出ないままかなりのところまで判明してしまったのである。
 JTBキャンブックスから出ている『鉄道廃線跡を歩くVII』の巻末資料『「鉄道省文書」所蔵箇所一覧』を見ていて、試しに「国立公文書館」の公式サイトを探してみたら、何と今や、どんな文書が所蔵されているかの詳細な目録がデジタル・アーカイヴと称して公開されているではないか。『鉄道廃線〜VII』が刊行されてから既に9年、時間が経つのも早過ぎる。
 以下が残されている関連書類の件名(阪和電気鉄道が官庁から受けた免許・認可の中から、現・紀伊中ノ島駅に関するものを抽出。冒頭の番号は筆者による)。

1.中ノ島停留所設置の件 昭和6(1931)年12月24日
2.中之島停留所を阪和中之島停留所と変更の件 昭和7(1932)年1月22日
3.阪和中之島停留所位置及設計変更の件 昭和9(1934)年12月18日
4.阪和中之島停留所建造物変更の件 昭和9(1934)年12月27日
5.紀伊中ノ島停留所設備変更の件 昭和11(1936)年9月24日

 「阪和中之島」から「紀伊中ノ島」への駅名変更に関する書類が欠落しているとはいえ、ここまで揃っているとなれば、これはもう現物を確かめに行かざるを得ない。
 という次第で、はるばる東京の国立公文書館まで足を運んだのだが、いざ現物を見ると、届出書類と認可書類は確かに残されているものの、添付されていた図面類がない。3つ目の「位置及設計変更の件」など『別紙圖面ノ位置ニ變更シ』とあるだけで"御本尊"がないために、判明したのは今でいう営業キロ変更のみという有様。書類本文に記載された添付図面一覧を眺め、「これが見られればすべて解明されたのに!」と、御馳走の匂いだけ嗅がされてきたような仕儀になった。
 といっても、収穫がなかった訳ではない。
 びっくりしたのは最後の「設備変更の件」で、あまり関係なさそうだが念のため、というくらいの気持ちで当該の簿冊を出して貰ったら、予想外の事実が記されていたのである。
『驛本屋・通路上家撤去/紀伊中ノ島驛ハ昭和十一年六月十日ヨリ共同使用驛ト相成候結果弊社本屋及通路上家等ノ存置ヲ要セサルコトト相成候ニ就テハ……』(1936年9月17日申請 同19日受理 同24日認可)
 和歌山線紀伊中ノ島駅の開業は1935年の初めだから、1年半以上にわたって国鉄(省線)の駅舎と阪和電鉄の駅舎が別個に建っていたらしい。
 前回記した「駅舎移築説」はこれで完全に否定されたことになる。
 ただし、現存する紀伊中ノ島駅舎はやはり阪和電鉄が建てたもののようで、こちらは4つ目の「建造物変更の件」に記されていた。図面で確かめられないため"状況証拠"ではあるけれど、
『本屋及通路上家ヲ設置/追而右建設用地ハ貴省新設驛内ニ有之之カ借用ニ就テハ別途申請中ニ有之候』(1934年12月22日申請 同24日受理 同27日認可)
 まさか、このとき建てた駅舎が1年半で撤去されたということではないだろう。現存する駅舎と阪和線の築堤との間にさほどの空間はない。
 申請書類だから「建てさせて下さい」という調子になっているが、受理から僅か3日後に認可されていること、駅設置の受益者は主に阪和電鉄側であろうこと、その他の地理的状況などから、あらかじめ「そちらが主な設備を造ってくれるのなら省線に駅を設けてやってもよい」との非公式合意があったものと推測される。しかも、建てて貰った駅舎を初めのうちは専ら省線側が使っていたということか。
 これで、紀伊中ノ島の「国鉄駅」位置に「私鉄意匠」の駅舎が残る経緯は辿れた。けれども、もうひとつ謎が残っている。
 撤去されたという阪和電鉄単独の駅舎はどこに建っていたのか?
 現在、紀伊中ノ島駅ホームは電車8両分の長さ、屋根は約4両分の長さがある。南端は旧和歌山線の架道橋に、北端は国道24号線(旧・大和街道)の架道橋に接しており、構造物をよく眺めれば、南端側4両分のホームと約2両分の屋根はかなり古いことが分かる。しかし、ある書籍に載っていた戦後すぐの地形図を見ると、阪和線紀伊中ノ島駅の標記が北寄りの大和街道に接して描かれ、和歌山線との間に不自然な隙間がある*2。駅開設の申請書類によれば、開業時の公式キロ程(営業キロという言葉はまだなかった)は阪和天王寺起点59k948となっており、3年後の「停留所位置及設計変更の件」で60k050に変更とある*3。その差は102m、電車5両分強という数字はやや過大ながら納得できる範囲内だ。公式キロ程の算出基準は「停車場(停留所)中心」という一点で、これは必ずしも駅施設の「どまんなか」ではない。
 これらのことから見て、高度成長期以降に造られたものと思しき北寄りの延長部分に、開業当初は短いホームがあったのではないかと想像される。
 省線乗換駅となった後まで阪和電鉄単独の駅舎が使われていたのなら、開業当初のホーム南端と移転後のホーム北端がほぼ同じ地点で、駅舎はその付近に建っていたと考えれば辻褄が合う。現状はというと、なにしろ築堤上へ後から造られたホームだけに、斜面から鉄骨が突き出してその上に薄っぺらいコンクリート(屋根を支える古レールはこれを貫通)が乗っかった構造になっており、盛土の斜面も近年大がかりな補強工事が行われたようなので、築堤下へ階段があったような痕跡は一切残っていない。築堤にコンクリート・アーチの人道通路があるのはやや気になるけれど、いつのものか分からない。
 結局のところ「図面さえあれば!」ということになる。申請書類と離ればなれにされた添付図面はどこへいってしまったのだろう。

申請書類は「中之島」なのに、認可書類では「中之島」と「中ノ島」が混在し、見出しが「中ノ島」となっているため、デジタル・アーカイヴはこれに準拠した模様(簿冊は認可書類→申請書類の順で綴じられている)。鉄道免許の公式書類にあるまじき粗雑さというべきか。僅かひと月での駅名変更もここに起因するかもしれない。免許・認可というほどのことではない何かの申請で「書類に記載された駅名標記が認可されたものと違う」と官庁から指摘され、『ちゃんと"中之島"で申請した筈ですが→アッほんとだ。でもこのままじゃ困るから中之島・中ノ島以外の駅名へ変更手続きをしてくれ→仕方がないな、"阪和"を付けます』などというやり取りがあったと想像してみるのも面白い。現在とは比較にならぬほど"官庁"は偉かったろうから。なお、当時の私鉄駅は法令上、停車場(構内に分岐器アリ)と停留所(分岐器ナシ)に区分されていた。
地形図の大規模な修正が、阪和電鉄単独駅の時期に行われていることが国土地理院の公式サイトから確認できた。以降は戦中戦後の混乱期で「応急修正」のみ施されているため、和歌山線紀伊中ノ島の駅標記を追加しただけで阪和線側は旧版のままになっていたものと考えられる。
昭和15(1940)年10月改正という、南海鉄道と合併される直前の時刻表では、阪和天王寺−紀伊中ノ島60.1キロとあるから申請書類の四捨五入と合致するが、現在はなぜか60.2キロで(60k170らしい)、こちらの経緯は不明。ちなみに、1940年の阪和砂川と現在の和泉砂川はいずれも40.5キロと不変である。

 これが"気になる"トンネル型通路。上に見えるホームは戦後に
延長された部分。開通時からあったこの通路に合わせて駅舎を
造ったか、駅設置に合わせて通路を掘削したか、いずれにせよ、
初代の駅舎(1932年築、1936年撤去)はこの付近にあったと考え
るのが自然だと思う。
 発見したときは、すわ改札内通路の痕跡か? と色めき立った
ものの、後述する理由でその可能性は低い。

↓↓写真は2017年の再訪時に撮影↑↑

 上りホームへの階段を登ったところに、レール面と
同じ高さの踊り場がある。本文作成時に、向かいの
下りホーム下に同様の痕跡を認め、さらに観察する
と、駅舎からの階段に架けられた屋根の部材が上り
線側だけ古いことを発見! 築堤上に構内踏切があっ
たとしか考えられない。
 それらの写真を撮って来よう……と思ったら、下り
線側の痕跡、なくなってやがる(悔)。階段の屋根部
材も、本文作成時は古レールだった筈なのに……?
 記憶違いではないと思うが……
 ともかく、初代駅舎も階段は一つで構内踏切を持っ
ていたと推定出来る(あまり説得力ないなぁ)。

 

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