救急車騒動
左のふくらはぎに痛みを覚えはじめたとき、まさかそれが救急車騒ぎにつながるとは予想しなかった。
俗に「こむら返り」という、筋肉がずりあがったような感触ではなく、ふくらはぎ全体がしくしく、ひどくなるときりきりと痛む感じである。痛みには波があって、日によっては何の違和感もなく、日によっては歩行時に足をひきずるほどになった。まだ寒さが残る季節のことで、気温の低い日ほど調子の悪い傾向があったため、なに、春本番になれば楽になるさ、どうせどこかで捻ったのだろうから、そういつまでも痛みつづける訳がない、というくらいの心積もりでいた。
そんなある日、仕事帰りに夕食を済ませようと地下道を歩いていたら、日中はむしろ機嫌のよかった左足が痛みだした。畜生、こんなときに、と舌打ちをして、いくらかヨタヨタとした歩調で進んでいくうち、痛みがそれまでなかった水準にまで強くなり、歩き続けるのが難しくなってきた。
痛い。とにかく痛い。それ以上に形容詞のつけようがない。
行こうと考えていた飲食店街には、エスカレーターの踊り場に何組かの丸テーブルと椅子がある。とにかくそこまで辿りつければ休める、何とかそこまで頑張ろうと、そればかり自分に言い聞かせて、一歩ごとに喉の奥で小さな呻き声を上げながらようやく目的地が近づいたところ、まもなく夕食時間帯とあって、椅子は家族連れや学校帰りらしい女の子の集団でふさがっているのが見えた。
立ったままでもいいから少し休もう、と壁によりかかって左足を地面から浮かせてはみたものの、激しい痛みは一向におさまらず、暖房の届きにくい場所にもかかわらず、上半身全体が脂汗でじっとりとし、こめかみを冷たい汗が流れた。
いったい自分の身体に何が起こっているのか分からなかった。
反対側の壁には、待ち合わせでもしているのか、定期的に携帯電話に目をやる女性が突っ立っていたりして、巡回する警備員も特に不審がる様子はなかったが、見まわり箇所の一巡を終えたらしいその警備員が再度現れる頃になっても痛み方が少しも変わらないので、ついに諦めて救援を求めた。
「救急車を呼びますか」
警備員はいくらか迷惑そうな口調であった。
「いや、そこまでは……」筆者は口ごもった。
商業施設の立ち並ぶ区域だから、近くに医務室くらいあるだろうと思っていたのだが、相手は、
「自力で動けない以上、他に医療機関へ行く方法はないですよ」と言い切る。
仕方がないので「じゃあ、お願いします」と言った途端、不思議なことに、警備員の言動から迷惑そうな素振りが消え、何かのスイッチが入ったようにてきぱきと行動し始めた。
どこからともなく警備員がもう一人、折りたたみ式らしい車椅子を押して現れた。それに腰を下ろしてみても、左足の激痛に変化はなく、真夏の屋外でも歩いたかのごとく汗が噴き出し続ける。
詰所のようなところへ運ばれ、既に救急隊とつながっているらしい携帯電話を手にした一人目の警備員と病状について一問一答していたとき、今度は何かのスイッチが切れたように、足の痛みがスウーッと鎮まっていった。歩行困難になってから30分ばかり経った頃のことである。
「あっ、収まってきました。多分、歩けると思います」
警備員には申し訳なかったが、救急車が出動する前で良かった。ただし、痛みが鎮まったといっても消え去った訳ではなく、半ば心配そうな、半ば狐につままれたような様子の警備員に見送られて詰所を後にし、そこから最短距離の蕎麦屋でともかく食事を済ませ、帰途はあちらで休みこちらで一息つきという調子でどうにか駅に辿りついたのであった。ここまで来れば、その後は歩く距離も多寡が知れている。
実は、過去に一度だけ救急車に乗ったことがある。
間もなく実家を離れて一人暮らしを始める、親との同居も残り何ヶ月かというある夜更け、母親が呼吸困難を訴え、幸いにもまだ起きていた筆者が電話に飛びついたのだった。通報から5分ばかりで救急隊が到着したものの、いつも母が持病を診て貰っているS病院 -日頃の健康状態を聞いた救急隊員は関連アリと判断した様子だった- は集中治療室が満床で駄目、続いてE市、Y市の救急病院に断られて不安になりだ
したとき、河内長野市に受入先が見つかり、ようやく救急車はサイレンと共に走り出した。
筆者は車に乗らないので、いくらも経たないうちに何処をどう走っているのか分からなくなった。母は酸素吸入のマスクをつけられ、しかしそれだけでも効果があったようで、蒼白だった顔色にやや血色が戻り、頻繁に搬入先と連絡を取っている救急隊員も、何とかが幾らまで回復、と言っているのを聞いて多少は安心することが出来た。すると、情けないことに今度はこちらが車酔いを感じだした。付添人席は鉄道車両でいう「ロングシート配置」で、緊急車両といえども要所要所での減速は避けられず、乗り心地の悪さは相当なものであった。病人を搬送する関係上、暖房も強くかかっている。
背中を窓に押し付けると少しは冷気が伝わってくる。乗り物酔いを起こしたときはなるべく遠くを見る、というのが鉄則だから、母の様子と後部窓ガラスの向こうへ交互に視線をやるしかなかった。
鉄道で河内長野へ向かうと、近鉄南大阪・長野線経由の場合だと古市駅の手前で窓外に耕作地が広がるけれども、救急車の疾走する通りの両側には建物がほぼ切れ目なく続く。
時刻は午前1時近く、灯を落としたネオンサインが目立つ。流れていく明かりはコンビニエンスストア、自動販売機、途切れ途切れの道路照明に信号機……。
何やら、古くから馴染んできた懐かしい風景を見ているような心持がして、こりゃ車酔いと心労で頭がどうかなっているのか、などということまで考えてから、そうだ、随分長いこと、寝台車の窓からこうして流れて行く夜景を眺めるのが好きで、半ばそのために旅に出ていたんだっけ、と気がついた。もう何年も、夜行列車に乗っていなかった。乗るべき列車そのものがなくなったせいもあるが、体調面から「開放型」の寝台車に乗る気力が湧かず、さらに選択肢が狭まったせいでもある。20代の頃の体力水準であれば、残された「日本海」のA寝台車(後記。2012年3月、不定期化と同時に消滅)に喜び勇んで乗ったろう。
やがて「上宮太子高校」の看板が見え、さらにしばらく行くと「大阪大谷大学」の文字、ここまで来れば、鉄道線路しか記入されていないような「脳内地図」上の現在位置がはっきりしてくる。
「もうすぐ着きますからね」と救急隊員が母に声をかけるのを聞いて、色々な意味でホッとした。
病院に着くや、筆者は転がり出るように救急車を降りた。救急隊員にお礼一つ言わなかったことに気がついたのは、救急処置室と書かれた部屋の前で長椅子に腰を落ち着けてからであった。
幸い、母親の病状 -やはり持病との関連が深かった- は思いのほか軽く、一週間程度で退院することになるのだが、電車が動き出すのを待って家に戻ったら、早くに寝ていた父親が夜中にトイレにでも行って気づいたのか、開けっ放しだった玄関の鍵を閉めてしまっており(昔風の木造家屋で外から鍵の操作は出来ないのである!)、いくら携帯から電話を鳴らしてみても気づいてくれず、なにしろ緊急事態だったもので部屋着にダウン・ジャケットを羽織っただけという服装であり、一日の最低気温を記録する筈の夜明け前後(後で摂氏2度と判明)、しかも学生時代以来の徹夜明けに戸外へ締め出されたのには参った。
実家へ帰る度に、この「最後の事件」を思い出す。
一方、筆者自身の救急車騒動は未だ尾を引いている。
翌日に外科で診てもらったところ、医師は珍しくもないという口調で言った。
「これは、おそらく腰が原因ですよ。レントゲンを撮ってみましょう」
腰には何の自覚症状もない。半信半疑というより一信九疑くらいの感じでレントゲン室から診察室へ戻ってきたら、腰のところで背骨が左右方向に曲がり、かつ等間隔であるべき背骨のブロックが縮まって神経を圧迫している、坐骨神経痛プラス椎間板ヘルニアだ、という診断結果であった。
脚でないところに原因があればこそ、激痛が突然すっと鎮まったりしたという訳か。
それ以来、毎週外科通いをして腰の牽引療法を続けている。
半月ほどで症状はかなり改善し、歩行が困難になったり足を引きずったりすることはなくなった。とはいうものの、半年後に撮った2度目のレントゲンでも、背骨の歪曲にあまり改善が見られないという結果であった。
発症したのが春先、気温の高い日は機嫌が良かった、というのは不吉だ。
筆者は極度の暑がりなのである。その暑がりの胴体にぶら下がった寒がりの左ふくらはぎ……。冬になったらどうなるのか、これを書いている時点では見当もつかない。主治医からは典型的な大阪弁で厭な忠告を貰っている。
「重いモン持ったらあきまへんで」
「無理したら再発しまっせ」
画像は、時間つぶしと「何かに使う機会があるかも」という思いつきからケータイ・デジカメで記録した「厳冬期鉄道撮影の図」だが、こんなところで足が動かなくなったら命にかかわる。健康状態が理由で「日本海」や「きたぐに」の開放型A寝台車から遠ざかったのと同じように、
もうこのような撮影行は出来なくなったのかもしれない。
後記。牽引療法を続けた結果、一旦は完全に症状が消えたので、試運転のつもりで交換レンズに三脚を携えて撮影行に出たところ、今度は腰に痛みが発生! 外科医に状況を伝えたら「仕事なら仕方がないけれど、そうでないのなら止めなさい」と無情のドクター・ストップ……。どうしても撮りたいという列車や車両があらかたなくなってからで良かった。といいつつ、完全には鉄道撮影から足を洗わず、荷物の重量に気を遣いながらボチボチ続行中(笑)。
さらに後記。2022年1月、なんとか自力で119番通報し病院へ救急搬送された。詳細はこちら。
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