その名は"亀喜荘"

 このコーナーに通番は振っていないけれど、内容的には「番外編」といったところ。
 直接このページを開いて、バックナンバー保管庫から他のページをご覧になるとがっかりするかもしれないので、あらかじめご承知置きを。
 まず初めに、かなり邪道な鉄道写真をお目にかける。一旦は"衝撃的な"と記して、これじゃ自画自賛と受け取られかねないな、と書き直した。

解体直前の亀喜荘、2003年

 撮影場所は紀勢本線湯川駅付近。2003年10月、気動車急行「きのくに」が二日間限定で復活したのを撮影に行ったときのものである。直前に通る定期特急列車をこの構図で撮ろうとする筆者を見て(広角レンズでこれを撮る姿を端から見れば、カメラは完全に廃墟を向いている)、隣にいた撮影者が「こ、これ入れて撮るんですか?」と、趣味が悪いなぁという口調になったのは覚えている。
 紀勢本線の車窓が好き、という1960~70年代生まれの方なら、この"物件"をおそらくご存知の筈。旅館の跡なのは明白で、1980年代には既に営業していなかった。とんでもない位置に建っており、河口とも入り江ともつかない地点を舟で対岸まで渡らないと辿り着けない。物資の輸送手段が主に海運と鉄道だった時代はむしろ便利だったのかもしれないけれど、トラック時代になってからはさぞかし大変であったろう。薄暮の湯川駅を通りかかった列車の窓から、木製の桟橋を持つ舟着き場の明かりだけが灯っている光景を見たような気がするが、いつのことか、記憶が正しいかどうかもはっきりしない。
 簡単に近寄れない立地だからこそ、こんな状態になるまで放置されていた訳である。しかも、それが撮影に適した鉄道橋の傍にあったとは。
 土台に大量の部材が折り重なっている様子を車窓から確認したのはおそらく翌2004年。ついに崩落したか……と感慨に耽けったのは早合点だった模様(後述)。
 つい最近、アルバムの山から羽幌線跡(北海道)を訪問したときの写真を探したら、その後ろに下の写真が入っていた。
 大学時代の後輩と一緒に紀伊半島を一周する"乗りテツ"に行った際、余ったフィルムを消化するためカメラを持って行ったらしい。湯川で列車行違いがあり、ホームからでもそこそこの構図が得られるので、まだ急行型電車だった普通列車から降りてシャッターを切ったものと思われる(撮影時の記憶なし。乗りテツついでの写真は記憶から抜けやすい傾向がある)。1996年8月撮影なのは確か。

1996年当時の亀喜荘

 まだ建物に大きな歪みはないものの、屋根瓦の剥落が見える。近年「廃墟探訪」が流行らしく、しかも不思議と写真の上手い人が多いのでちょいちょい廃墟関連サイトを訪問しているけれど、屋根をやられると一気に崩壊が進むというのが一般的な図式のようだ。
 これを見ると、思いのほか規模が大きい(正面玄関を持つ平屋を介して、奥の灰色っぽい棟とも渡り廊下で結ばれていた)。もっと右へカメラを振って廃墟だけの構図も撮っておけば……と悔やまれる。早くから「妙に気になる建物」ではあったのだから。
 廃墟サイトを訪問するようになったのは、この物件の正体が知りたくてしばしばネット検索を試みた結果ながら、なかなか"解答"が見つからず、2017年になってやっと『亀喜荘』という名称を知ることが出来た。ただ、読み方がどこにも示されていない。カメキ荘か、ちょっとひねってカメヨシ荘か。名前が分かった途端、色々な情報源に辿り着くことが出来、2005年に出版されたという廃墟写真集まで買ってしまった。それによれば1958年営業開始と思いのほか新しく、僅か17年後の1975年に廃業したそうな。すぐ近くなのに、"湯川駅"のキーワードでいくら廃墟を検索しても出て来ないのは、それだけ"駅"の地位が低下しているということなのかもしれない。

解体。撤去後の亀喜荘跡地、2014年

 2014年10月時点できれいに片付けられてこのような光景となっていた(24系トワイライト編成が団体列車として新宮まで走ったのを撮りに行った際、ケータイ・デジカメで記録)。2004年9月に所有者と自治体が費用を分担して文字通り"解体に漕ぎ付けた"とのことで、部材が折り重なっている光景は作業中のものだったか。重機の搬入にも瓦礫の搬出にも苦労したに違いない。

 文章を概ね書き上げて細部の修正をしていたら、不意に記憶の底からある"絵"が浮かび上がってきた。それは、亀の線描イラストを挟んで「カメ Φ ヨシ」という感じでカタカナ書きされたもの。玄関口付近、または線路に面した壁のどこかに描かれていたものではないだろうか。残念ながら"亀喜"と"カメヨシ"で「&検索」をかけてもこの廃墟に関連する情報は出て来ない。

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 直接の関係はないものの、同じ和歌山県内の宿泊施設跡ということで触れておきたいのが"椿グランドホテル"。インターネット上の情報だと1972年2月に3人が死亡する大火災を起こして休業、廃墟と化したとされている。でも筆者の記憶に「椿グランドホテル」の名を記したマイクロバスが椿駅前で客待ちしている映像が朧に残っているのはどうしたことか。火災の直前だとしたら筆者は辛うじてこの世に存在してはいるものの、母親のオッパイにしゃぶりついている頃だから--あっ、この表現は不正確だ。母親によれば母乳は必ず嘔吐してしまうので専ら哺乳瓶で育った由--そんな具体的な映像を覚えている筈がない。
 思いついて、手元にある『国鉄監修・交通公社の時刻表』巻末の旅館案内に当たってみると、やっぱりあった! 1979年6月号には載っている! すく下段の『玉椿観光ホテル』には休業中との記載があり、問題の『椿グランドホテル』には交通公社で予約可能を意味するマークも付されているから、やはりこのときは営業していたとしか考えられない。
 余談ながら『JTB時刻表』巻末の全国旅館案内は2016年までこの様式を変えていなかった。旅館名の右にある数字は二食付宿泊料金(単位は百円)、ビジネスホテルには(RC)の注記を付して"素泊まり料金"であることが示されていた。
 火災の詳細は「消防防災博物館」というサイト内にPDF形式で掲載されており、施設全体の平面図と側面図を見ることが出来る。それによれば本館と新館という鉄筋コンクリート建築の間を一部鉄骨の木造建築が繋いでいる構造で、木造部分から出火、延焼した由。筆者自身の記憶を含め入手し得る情報を総動員するに、損傷の少なかった"新館"部分を大改修して営業を再開したのではないかと思われる。これもインターネットで見つけた新館らしき火災の写真と廃墟の写真を比較すると、後者がふた回りくらい大きい。火災時"本館"は5階建てで"新館"は7階建てと記録されているのに、廃墟は明らかに9階以上あり、護岸の様子からして海側への増築により地下方向にフロアが拡大しているように見える。亀喜荘のところで触れた本に改築と営業再開について簡略な記述はあるものの、ホテル名からして正確さを欠き("椿"が末尾になっている)、火元は木造部で焼け落ちた筈なのに改築後の厨房を「出火元」と記すなど、資料性には疑問符が付く。なお、更地になったのは2008年とインターネットが普及した後のため、解体途中の写真は簡単に見つけられる……って……アッ! 参考にしようと各種資料のウィンドウを開いた状態でこれを書いていたら、ある発見をしてしまった。火災時の施設平面図を近年の地図上に(頭の中で)重ねると……! 詳細は書かない方が無難な内容なので、気になる方はご自身で検索を。
 そもそも関心の対象が"廃墟"であれば、その物件がいつまで本来の目的で使用されていたかというのは大きな問題ではなく「長期間廃墟になっている→調べてみたら大火災があった→なるほど」で納得してしまうのかもしれない。曖昧な書き方になっているサイトは何らかの矛盾に気づいたのか、筆者と同じ発見をして「ワーッ、こりゃ迂闊に書けないや」と判断したのか。もう一つ、死者を出した最大要因が「誤作動が頻発するので、不法に設置した中間スイッチで火災報知器の電源が切られていた」ことだというから(経営者は執行猶予つき有罪判決を受けている)、今なら営業再開は困難だろう。時は1972年、そりゃ偶には火事くらい起こるさ、大火事がありゃ死人だって出るさ、新館部分の建物はまだ使えるって? じゃあ修繕して営業を再開しよう……昔はそれが当たり前だった。
 「安全と安心は違う」なんていう論争が巻き起こる時代と比較して、どちらが健全なのか、どちらが狂気なのか、筆者には分からない(実家を片付けていたら、母親が撮ったこんな写真を発見! ↓ 1975年前後)。

 試しに"玉椿観光ホテル"で検索してみたら、日本年金機構の『持ち主不明の記録のある事業所一覧表』という、その意図が大変分かりにくいお役所サイトだけが"正しい検索結果"で、表内に『玉椿観光(株)白浜国際ボウル』というのを見つけて声を上げそうになった(とうに忘れていたけれど、そうそう! そんな名前のが建ってた! という感じ)。かつては温泉街の北の外れにホテル・遊技場・分譲リゾートマンションと"玉椿"を名乗る施設が並んでいた訳で、同じ開発業者の手によるものだったかもしれない。議論が進む「IR」とやらの末路を先取りしている感がなきにしもあらず。現存するのはマンションのみであるが、こちらは売り物件が出れば買い手がつく状況だと聞いている。ただし、使わないのに売りもせず放置状態の住戸は少なからずあるみたい。ここのエントランス向かい側、潮風に雑草が揺れる平らな空地がボウリング場の跡。いくら流行していたとはいえ、この立地ではちょっと……と考えさせられる。
 リゾートマンションの建設計画が次々出てきて、運営会社が何らかの「幻想」を抱いたのだろうなぁ。

 

〇参考書籍 『廃墟本』(中田薫/中筋純 ミリオン出版 2005年)

 

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