慌ててばかりの撮影行

 桜の季節がくると、カメラを持って出かけたくなる。
 妙に逆説的な話にはなるけれど、これは学生時代にあまり撮っていないからというのが大きな理由といえそうだ。最も時間に余裕のある大学時代、鉄道研究会という組織に所属していたために、その時期は「新入生勧誘の準備」に追われて撮影に行くどころではなかった。高校時代となると、春休みというものはあっても進学校だけに宿題に追われて気分的な余裕がなく、夏休みほどの日数がないから「今日もうちょっと頑張って時間を作ろう」という作戦も難しかった。さらに、まだまだJRにも中小の私鉄にも魅力的な車両が残っていて、情景派の撮りテツを趣味としつつも、日時が狭い範囲に限定される「桜」にまで意識が向かわなかったという面もあったろう。
 2018年は桜の開花が早かったので、カレンダーの曜日配置と合わせてまず考えたのが、
-片上鉄道保存会の展示運転が満開に重なるのでは?
 ということ。しかし、天気予報を見ると予想気温がとにかく高過ぎる。
 津山からバスで吉ヶ原まで往復するだけというのはあまりにもつまらない。美作飯岡と周匝の間を歩けば、高下という片上鉄道と無関係の場所でバスを待つ必要がなくなる。でも暑がりの筆者は3月に最高気温23度と聞いただけでうんざりだ。
佐用駅、2018年春 展示運転は諦め、予想気温が低めに出ていた3月30日、日帰りで片上鉄道跡へ出かけてきた。
 特急「スーパーはくと」を降りた佐用駅の構内も満開の桜に彩られ、目を楽しませてくれたが、ここから津山方面へ長らく行ったことがなく、姫新線姫路口の新型車投入で駅の使われ方が大きく異なっているのにまごついた。
 まず、智頭急行線ホームから見ると、姫新線ホームに十人ばかり高校生が固まっている。ここから津山へはレールバスの出来損ないみたいな車両しか走っていないから、十数人の先客は脅威である。林野までおよそ30分、立ちんぼかロングシートか、厭な選択を迫られると思いきや、次の播磨新宮行が佐用始発ではなく上月からの列車で(佐用始発の場合とは島式ホームの反対側から出る)、高校生たちはみんなこれに乗って行った(キハ40の最後期は全列車佐用折り返しだったと記憶している)。
 胸をなでおろしたけれど、どうも様子がおかしい。
 播磨新宮行はホーム上り方先端に停まった。確かに停止位置標識とワンマン運転用のミラーもそこに建っている。しかし、下り方からわざわざホーム先端まで進んで、そこから折り返すような無駄なことをするだろうか。
 慌て気味に昔のまま(?)長いホームをウロウロしていたら、智頭急行との用地境界を示す低いロープ柵に紛れるように、もう一本「折」と記した停止位置標識を発見。そこに立って数分後には津山からの列車が入ってきた。接続の悪い姫路方からの乗継客も5人ばかり、気長にベンチに腰掛けて待っており、間一髪セーフで座席を確保。計画時に「"乗りテツ"に行く訳じゃないし、クロスシート4ボックスに16人ぎっちり座るほどの混雑はまずないから、通路側でヨシくらいの気持ちでノンビリ行こう」と考えていても、現地ではついセカセカ……これからの30分間、快適に過ごせるかどうかの境目とあらばどうしてもこうなる。
 よく見ると、ホーム高さが上り方半分と下り方半分で違っており(写真でも見えている)、ステップのない新型車は高い部分に停めるという、島式ホーム一本を四つに分けた使い方をしているようだ。
 クロスシートを確保してしまえば、途中駅は数人の乗り降りしかなく、そこそこいい気分で林野駅へ到着。
 大きな木造駅舎が残っていて、レールバスの出来損ないしか来ない駅とは思えない。そういえば、車両が現在の水準にまで"落ちた"直後、それを知らずに津山から佐用へ向かったとき、ここから大勢が乗ってきてスシ詰の満員になったものだ。いうまでもなく、それから乗客数が急激に落ち込んで現在に至っている。今回はこの愚挙について深入りしない。
 さて、次に乗るべきは『新道穂崎行・赤磐市広域路線バス』である。
 片上鉄道が現役であった頃、周匝から「宇野自動車のバス」でここへ出たことがあり、林野駅なる停留所が駅前にはないことを知っていた。駅からは、かなり年季の入った『バスのりば』の看板が見え、大型車体の路線バスも停まっている。でもインターネットに"赤磐市広域"はマイクロバスだとあるし、そこらじゅうにやたらと建っている「美作共同バスのりば/林野駅」の標識に惑わされて右往左往するうち、新道穂崎行の発車時刻まで3分を切った。
 再び慌てて、とにかく林野駅まで戻る。駅員配置駅なのか、なんらかの委託なのか、なぜこんな駅で窓口が開いているのか思案する余裕などない(帰宅後に写真をパソコンで原寸表示してみたら、"光トラベルセンター"という文字が読めた。慌てたとか余裕がないとか言いつつちゃんと写真があるのは、列車を降りてすぐ、おぉ、駅舎はいい感じで残ってる! うわぁ、バスのりばの表示がいい味出してる! とパチパチ写した後でバス停を探し始めたため)。
林野駅舎、2018年「スミマセン、新道穂崎行のバスはどこから出るのでしょう?」
「えっ?」
「新道穂崎行……」
「どこ?」
 これでますます慌てない方がどうかしている。
「岡山方面!」
「岡山へのバスは朝晩だけになったよ」
「だからその途中までの便でシンドウホ……」
「あそこに大きくバスのりばと書いてあるやろが」
 何だこの不親切かつ不愉快極まる応対は……。後で確かめると、岡山行は"朝晩"ではなく朝だけで、夕刻は林野への到着便しかない。それを知ってますます呆れた。
 喧嘩している暇はないので、大急ぎでもう一度年季の入った車庫にしか見えない建物まで行ったとき、車庫内ではなくその奥の露天に停まっていたマイクロバスがエンジンをかけた。コミュニティバスらしく車体に経路がいろいろ書いてあるけれど、遠くて小さな文字が判読出来ない(若い頃なら読めたろうなぁ、視力2.0だったから)。ともかく、乗車口のドアはずっと閉まっていたから乗り遅れではないらしい。
 動き出したバスは車庫風の建物に入り、昼寝中の大型路線バスと平行する位置に停まってドアが開いた。
林野駅バスのりば、2018年「周匝へ行くのってコレですよね」
「そうですよ。どうぞ」
 地獄に仏で、ごく普通の応対がとてつもなく親切なように感じられた。席に着いてみると、窓ガラスを隔てた目の前、建物の外からはまず見えない位置に宇野バス用らしい停留所標識が建っているではないか。帰宅後に改めて調べてみると、赤磐市広域路線バスのこの区間は停留所標識を宇野バスと共用しているとのことである。
 運転席の背後には『公共交通機関を利用しましょう』なんていうポスターが掲げられているものの。インターネットの下調べをある程度やってこの有様では……。林野駅からの客はほかになかったものの、停留所ごとに一人ずつ乗ってきて、筆者を含め5人にまで増えた。それ以上にはならなかったけれど、筆者より先に降りたのが2人だけなのはいくらか心強い。
 湯郷温泉を過ぎ、吉井川の支流「吉野川」に沿って走る。川辺の風景には見覚えがあるようなないような、おそらく片上鉄道のなくなった1991年から大きくは変わっていないだろう。
吉井川堤防、周匝付近、2018年春 吉井川との合流点が見えれば「落合」停留所、次は吉井川を長い橋で越えると降りるべき「周匝上」である。この辺りは鉄道の廃止と前後して道路の拡幅が行われ、往時の面影はない。最初に廃線跡を見にきたとき、廃線前と同じ「周匝上」で降りたのに風景がまるで違っており、しばしキョトンとしてしまったものだ。
 今はちょうど満開の桜が、吉井川の堤防にも並んでいるのが見えた。
 写真の橋は線路跡をほぼ踏襲、当初は鉄道用の橋桁を転用した人道橋だったのに、残念ながら台風に伴う水害で破壊されてしまった 。復旧と合わせ、堤防もかさ上げされたようで、廃線跡のラインと垂直方向に大きなずれが出来ている。また頑丈に造ったのか、橋の上からはコンクリートの側壁に遮られて見通しがまるで利かない。鉄格子付きの窓みたいな空間がところどころにあり、そこから川面を垣間見るばかりで「片上鉄道第二吉井川橋梁」ってこんなに長かったっけ? と感じさせる窮屈な空間になっていた。復旧後にこれを渡るのは初めてであることに、ここでようやく気がついた。
 周匝と美作飯岡の間はかつての営業キロで1.1kmしかなく、橋を渡ればすぐ美作飯岡駅跡に着く。
 もしかすると、ここは片上鉄道跡のなかでもっとも廃線情緒あふれる場所かもしれない。モニュメント的なものは一切なく、駅舎は撤去されたため過度な荒廃感もない。ホームはそのまま残り、白線まで見える。駅舎の脇に立っていたらしい木が相当な大きさに成長、線路跡にまで枝を伸ばしているのが廃止からの歳月を感じさせる。
 周匝や備前福田の駅舎脇にはやや大きな木があったのを覚えている。でも美作飯岡にそんな大木があったかしらん、と古い写真を探したら、木があるにはあった。

美作飯岡ホーム跡、2018年 美作飯岡駅舎跡、2018年

美作飯岡駅俯瞰、1991年

 記憶に残っていないのも無理はない。駅舎の屋根より低かったのだ。
 和洋折衷の造りが印象的な駅前の建物は、今は廃墟となっている。
 次に乗るのは中鉄北部バス。いわゆるコミュニティバス特有の「一人合点の分かりにくさ」がないので気は楽ながら、美作飯岡駅跡に近い「飯岡中」から、駅舎の前まで乗り入れる「吉ヶ原」まで、他に客はいなかった。
 吉ヶ原駅に来るのは十数年ふりであった。駅舎に入り、壁際の作り付け木製ベンチに鞄を置いてカメラを出そうとしたとき、不意に十数年どころではない長い時間が短絡した。1990年春、バスではなく片上鉄道の気動車を降りて、まったく同じ動作をしていたからである。当時、吉ヶ原の小ヤード(現存せず)は車両の夜間滞泊用として一部が現役であったため朝夕には駅員が配置されたものの、日中は無人であった。
 保存運転は過去に2度ばかり見にきているけれども、こんな感慨は抱かなかった。同行者がいたことと、駅構内に散在する「乗客」の数が廃止直前よりずっと多かったためだろう。
 改札を抜けると、駅周囲の光景は大きく変わっていた。
 廃線直後に一旦は撤去された駅舎脇の貨物側線が復元された、というのを保存会の公式WEBサイトで知らされており、さらに現役当時に近づいたような錯覚をしていたら、山側の様子が前回訪問時とは違っている。
 2001年に保存車の走行シーンを撮ったとき、"本線"の山手は廃線前とほとんど変わっていなかったのに、今は鉱山公園の敷地が拡大して山手からは撮れなくなってしまったようだ。線路際に桜が植えられたのは2001年である由、なんと保存運転を初めて見に行った前後で、それがもうこんなに大きくなったとは(齢)。
 桜を主役にする構図を探したり、光線状態との相性がよくない貨物側線の貨車を苦労しながら撮ったりした後、よせばいいのに、近くに見当たらないキハ702号を捜して"新設駅"黄福柵原まで歩いたら(下の写真はその途中で撮ったもの)、乗るべき津山行バスの発車時刻が迫ってきた。大急ぎでキハ702を撮影(写真は省略)、吉ヶ原駅に向かって足を速めると、駅前へ抜ける踏切を渡るところでもうバスが姿を現した。
 目的を果たした後だし、最終便ではないから乗り遅れても大事には至らないものの、春休み期間中の混雑を考え珍しく岡山から新大阪まで新幹線のグリーン券を買ってあったので三たび慌てた。
 そう長くもない単純な行程だったのに、慌ててばかりの撮影行。

片上鉄道吉ヶ原、2018年春

 "同和鉱業片上鉄道"は2度訪問した後で廃止が決まってしまい、最後期に通い詰めるのが精いっぱいであった。それでも、河本から先は全部の駅で"降りた"か"乗った"かしている。未知の撮影場所を探して苦木から歩くうち、備前矢田との中間点を過ぎていることに気づき、それならばと備前矢田まで歩いたら、後半は景色が単調で疲れ果てたのも懐かしい記憶。しかも、乗るときはつい吉井川に気を取られて、何やら大きな工場がある、という以上のことには気づかずにいた「日本弁柄工業」周囲の異様な色彩(当時は盛業中)につい無駄なシャッターを切ってしまい、フィルムを使い果たして"乗っただけ"の備前矢田駅で写真が残せなかったのは未だに悔やまれる(駅周囲を探すもカメラ屋とかDPE店は見当たらず)。
 美作飯岡は"降りただけ"で、乗ったのは周匝(同行者と一緒に第二吉井川橋梁を歩いて渡った悪い奴)。山腹の"太鼓丸"という広場に三脚を据え、暇潰しに周囲を散策していたら、カメラから離れずにいる相棒が絶叫した。
「おい! 踏切鳴ってるゾー!」
 単線特殊自動閉塞という信号システムのもとでは『絶対に列車が来る筈のない時刻』であった。とにかく駆け戻って、おかしい、あり得ない、と言い合いつつ念のためレリーズに指をかけていたら、数十秒後に警報音が止まって遮断機も上がった。誤作動だったのだろうが、あれがもし鉄橋を渡っている最中だったらさぞかし怖かったろう。1991年撮影と文字を入れた写真がこのときのものである。
 すぐ上の写真だけ見ていても(構図左手は殺風景になってしまったけれども)、いろんな思い出が甦る。うまい具合に車両保護用の屋根(旧3番線)が桜並木に隠れたこともあり、線路がこのまま片上へ続いているような錯覚にすら陥ってしまう。
 なんでも、一時は道路建設で線路を撤去し展示運転も打切りかという瀬戸際まで行ったらしい。そうでなくとも、古い車体やエンジンを懸命に維持している保存会の努力には頭が下がる。
 懐かしい車両たちに、季節を変えてまた会いに行ってみたい。

 

蛇足。小説書きを諦めてかなりの年が過ぎ、"文章だけで読ませる"自信も意欲もなくなっているので、写真を多用したブログ風の構成になりました。今後の"作者のひとりごと臨時復活運転"がどういう形になるかは自分でも分かりません(苦笑)。

 

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