文学的近況(後編)

 宮脇灯子著『父・宮脇俊三への旅』(グラフ社刊)。
 大阪在住の鉄道ファンには有名な旭屋本店の棚にもなく、待ちに待って入手した本ではあったが、読了するまでに4日かかってしまった。
 その前に買った本は何だろうかと調べてみると、指揮者・岩城宏之(これも故人)のエッセイ集『音の影』であった。こちらは倍ちかい分量があるけれども、2日間で読み終えている。
 やたらと時間を要したのにはいくつか理由がある。
 ひとつは、身内しか知り得ないエピソードにアッと驚かされ、意識が本の外へ飛んでしまって先に進まなくなること。

 もう六年も前のことである。私はふとしたことで右手を窓ガラスに突っこみ、手首の神経を切ってしまった。手術をしてつないだが、今度は筋が癒着して人指指、中指、薬指の三本が不自由になった。ペンや箸の扱いにはほとんど支障はないが、指折り数えたりすることはできなくなった。
 宮脇俊三「下部温泉」 『汽車との散歩』(新潮社)に収録

 ふとしたことで、って何だろう? と素朴な疑問を抱いてはいのだが、まさかその原因が「夫婦喧嘩」だとは思わなかった。しかも、
「平日働いている亭主に、休みの日までも働かせる気か!」(「夏の軽井沢風物詩」より)
 というのでは、原稿に入れようがなかったのだろうと拝察する。

 私が年頃になり、深夜に男の子から電話がかかってきたとき、こちらが寝ていて断って欲しいぐらいなのに取り次ぎ、それに対して詮索もしなかった。
(「わが家の放任主義」より)

 これはいかにも「父親・宮脇俊三」らしい。そういえば遠藤周作は……と意識がまた外へ飛び、本棚から『狐狸庵対談 快女・快男・怪話』(文春文庫)を引っ張り出したりして、やはり先に進まなくなる(興味のある方はこちらへ)。
 読了に時間を要したもうひとつの原因は、文章にムラがあり過ぎること。上に引用した部分もあまりいい文章とはいえない。比較的よく出来ている章もあるのだが、全般に話し言葉の混入や同じ助詞の繰り返しが目につき、意味不明の箇所さえ散見される。

 「旅好きの父」の背を見て培った価値観は、娘を縁遠くしてしまっている。
(「紀行作家は留守がち?」より 最後の一行)

 何が言いたいのか、何度読み返しても分からない。手前のセンテンスから「流れ」で意味を汲み取ろうとしても、やっぱり分からない。
 ここで、娘さんがエッセイストとしてデビューした頃に阿川弘之氏が書いたものを紹介する。

 だけど娘よ、幸田文女史に関し、名高い文壇エピソードがあるのを知るや否や。露伴を叙する文さんの随筆が世間の大評判になり出した頃、正宗白鳥翁が、「未だ認めんぞ。父親のことばかり書いている間は一人前と認めんぞ」、しきりにそう言っていたというのだ。堅気の勤め人と較べれば、文士に多少風変わりなところがあって当たり前、娘がそれを描けば面白いものが出来上がるのも当たり前、易きにのみつく勿れと、白鳥翁は思っていたにちがいない。
 阿川弘之「娘の学校」より 『春風落月』(講談社文庫)に収録

 もし題材が「宮脇俊三」でなかったら、最後まで読まなかった……うんざりして読めなかったかもしれない。ある章の結末近くでは、思わず、
「あ〜あ、こんな文章を書いているようじゃ、お父さん、どこかで嘆いてるよ」
 と呟いてしまった。
 心を鬼にして(?)まとまった引用をする。

 ときどき、ふと思う。
 もし会社を替わったとしても、ずっと編集の仕事を続けていたら、父とどんな話ができていたのだろうか、と。「名」がつくほどとまではいかなくても、DNA頼みでそれなりに一人前の編集者に成長し、同業者として一杯酌み交わしながら編集談義に花を咲かせることができたのだろうか、と。まあでも、子のレベルが低すぎて「蛙の子は蛙」とはいきそうもなかった。

(「"先輩"からのアドバイス」より)

 この部分は全部落第である。文章の構造そのものが混乱しており、「それなりに一人前の編集者」というのは日本語の体を成していない。
 何より、諺を使うときは必ず辞書を引いて意味を確認すべし!
 新潮国語辞典を確かめて一旦「完全な誤用」と判断してから、念のため広辞苑にも当たって「ありゃ? 誤用とも言い切れないのか」と考え直しはしたものの、不適切な使い方であることは間違いない。諺や慣用句の類は、それを構成する単語の意味だけでは理解出来ないものだから、知っている「つもり」で使うと落とし穴が待っている。
 話を出発点へ戻そう。
 文芸同人誌を退会したとき(前編参照)、アマチュアの集団とはいえ、こんな有様を「編集者・宮脇俊三」が聞いたら何と言うだろう、と考えこまずにいられなかった。阿川弘之氏のように作中で公然と批判することはなくとも、書店に溢れる粗悪な「文章」をきっと苦々しく思っておられたに違いない……
 やはり、その通りだった。
 家庭内では「最近はひどい文章の本が多い」「読むに値しないようなひどい文章」というようなことを時々口にしていたらしい。
「一つ二つ、文法上の誤りがあったところで、作品全体に影響を与えるものではない」
 そんなことがあり得ますかと、帰らぬ旅へ出られた宮脇俊三氏に訊けるものなら訊いてみたい。

追記。奥付をよく見たら、購入時点では「発行日」の到来していない"出来たての第2刷"を入手していたことが判明した。旭屋本店に見当たらなかったのは早々に売れてしまったせいかもしれない。やっぱり「作家・宮脇俊三」の威力は凄い、と改めて感心する。

 

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