遠い記憶から(小中学校篇2)
●私立中学を目指した二つの理由
家(親)の経済状態に触れることになるため、書かないでおこうかとも考えたけれど、そうすると妙に話のつながりが悪くなるから公にしてしまおう。既に両親とも他界し実家も処分済みだし。
二人の姉(次姉は40代で早逝)はいずれも中学から私立へ。いわゆるお嬢様学校で、そのまま内部進学で大学まで進んでいる。つまりそれなりに恵まれた経済状況だった訳である。長姉のときは学校の方から、
「今、中学校が少し荒れているので、お子さんの性格から見てお宅の経済状況が許すのなら私立へ進まれては」
と助言されたそうである。次姉はというと、
「問題のある生徒が卒業してしまったのでもう大丈夫」と言われて本人が反発、
「ヘンなのが卒業したから? そんな姿勢の学校なんか行かない」と長姉に続いたとの逸話がある。
高い授業料を払って金額相応の教育を受ける、というのは左翼思想と相容れないので、筆者の学級では『私立へは行くな』キャンペーンが展開されていた。
ただし、担任のS教諭はウチの母親には頭が上がらなかった。母は教師の免状持ちで独身時代は教壇に立っており(寿退職ではなく先輩教師と大喧嘩して飛び出した由)、Sが新任ヒヨッコ教師だった年に受け持った学級にたまたま次姉がいて、ずいぶん母親にシゴかれたらしいのである。こう書くと昨今の「モンスター・ペアレント」を連想されそうだが、次姉の証言によれば、
「家庭訪問のときなんか、私の話はなんにもしなくて、ひたすら『こういう場合はどちらの方針がいいでしょうか?』とお母さんにアドバイスを乞うばかり」だったとのこと(次姉が学力優秀で文句のつけようがなかったせいでもある)。そんな母は、
「上の二人が中学から私立へ行っている以上、学校の方針が変わったからアンタは公立へ行けとは言えませんからね」
と早くから釘を刺していたそうな。今から考えると、左翼思想でもう一つの柱となる"結果の平等"には背を向けてたなぁ、あのアカ教師。もっとも、6年生の1学期まで、私立を受験するつもりはなかった。小児喘息が治まったとはいえ、ラッシュ時の電車通学は無理じゃないかという不安が先に立ったからである。なら高校はというと、都心と逆方向に公立の「上位校」があるので、ここへ進めば電車通学でもそう苦にならないだろうと踏んでいた。
私立を目指そうと決めたのには「カッコ悪い理由」と「カッコいい理由」の二つがあった。
カッコ悪い方から。
S教諭はサッカー部の顧問。独自に始業時間前や放課後の練習をさせていたら、あるとき学校から「クラブ活動の時間は定められているから、それ以外の時間帯に児童を拘束することはまかりならぬ」との中止命令が下った。
すると、S教諭は一計を案じた。「町の小学生サッカーチーム」を結成、選手は小学校校区内で募集する、というのである。空時間に運動場を貸し出す制度でもあったのか、とにかく規則の抜け穴を突いた訳だ。それは「どうぞご勝手に」ながら、しきりと、
「小児喘息が治まったのならお前も入れ、体力をつけてやる」と口説かれるのには参った。
ちょうど面従腹背を始めた時期(前回参照)で、誰が入ってやるものか、と思っていたところへ、同じ要領で「町の小学生ソフトボールチーム」が作られたため、これに飛びついた(長姉の在学当時には最大で1学年13組という時期があったそうで、第二運動場なるものが存在したので後発ソフトボールチームはこれを使用)。
「ここに入ったら文句無いだろ」という作戦である。結成直後だからユニフォームもなく体操服、帽子だけ用意されて背番号ならぬ帽子番号16を貰った(一桁は先約品切れ)。
野球の類は好きだったし、1学期のうちはそこそこ楽しかった。しかし、夏休みに入ると状況が変わった。放課後と違い練習時間が長く、結構本格的な「ノック」も受けて外野の守備で繰り返し左右に走らされるのが体力的にかなり厳しい。練習日程表にはポツンと一日空白があり、今日は休みだ! と遅くまで布団にいたら、母が顔を出し、
「アンタ、今日は登校日と違う?」
「あっ。だから練習が休みなんや!」
こりゃ学力一本で競争する方が得策だし、退部のいい口実になる……というので、母に「私立を受けたい」と申し出た。そして周囲には、私立行きを決めたから受験勉強のため退部する、と主従をひっくりかえして説明したのであった。
カッコいい理由の方。
席次がはっきり示されない公立小学校とはいえ、試験結果や授業中の受け答えを見れば「オレの上にそう大勢はいないだろう」という自信が持てた中、急激に学力をつけ「コイツ、最近やるな」と意識せざるを得ない児童が現れた。理由は間もなく判明、私立を目指し受験勉強を始めたとのこと。
これを、S教諭が家庭に乗り込んで親を説得し諦めさせた。
当然の帰結として、目標を失い一時は注目を集めた学力もパッとしなくなった。それをことさらに「注意指導」するS教諭に反発を強めた筆者は、
「ようし、俺は私立に行ってやる。うちのお母さんには逆らえないらしいからな」
結果論として、あの時点で学力勝負に出たのは正解だったという気がする。ただし、とんでもない波乱万丈の進学校生活になるので、話の続きにも乞うご期待。
文章化してみたら、片や夏休み、片や授業中の話で並立関係にない。本当の理由と後付けでカッコつけた理由とするのが正確か(笑)。
●進学塾での衝撃
「入塾試験」に合格して割り当てられたクラスは「6C」で、6は学年、アルファベットは上からA~Dという学力別配分である。公立小学校で「オレの上にそう大勢はいない」というのは井の中の蛙、上には上がいるもんだなぁ、というくらいの気持ちで始めた塾通いで、さらに衝撃の事実を突きつけられた。
講義は「6C」単独で火曜と金曜の夜、それに加えて日曜日にはA~Dが集まって模擬試験が毎週行われる。この休み時間に、公立小学校では「学力底辺層」がやるような、知性のカケラも感じられない騒ぎ方をしている一団がいた。
「なんでこんな連中が進学塾に来てるねん」
半ば見下すような気持ちでいたら、何週間か経って実情が見えてくれば何と彼らは「6A」クラス、筆者など足元にも及ばない学力の持ち主だった!
「あの中の一人がウチの小学校にいたら、クラス内でいったいどういう存在になるんやろ?」と、子供心に考え込んでしまった記憶がある。
大学生のとき、高卒で就職したらしい「小学校時代の同級生」から電話がかかってきた。名簿を頼りに片っ端から営業をかけてきたようだった。商談不成立(なにぶん商品がデカ物で)の後で現況を訊かれ、大学生をやってるとだけ答えたら、重ねて「どこの大学?」ときた。
念入りに前置きしたのは、大学名(私立。当連載最終回に明示するのでここでは書かない)を明かした際に相手方の示した反応が、
「うおおっ」の後しばし絶句。「そういえば、小学生の頃からアタマ良かったもんなぁ」
だったから。
自慢したい訳ではなく、上述「オレの上にそう大勢はいない」の第三者証言として記しておく。
大学で「友達の友達」が小学校時代の同級生と判明した事例もあり。低学年時は遊び相手だったものの、高学年時には別の学級だったため競争相手としては意識したことのない存在であった。どう考えても学力低水準の地元公立中学から「追いついて」きたのだから、これも「アイツ、なかなかやるな」という事例である。
中学受験本番については、こちらのページで過去に文章化しているので繰り返さない。補欠合格(136人中130位台)で滑り込んだ直後、入試一発勝負で学級を配分すると偏りが出るためもう一度学力を見る、という試験が入学式当日に行われ、こちらは90位台を記録した。両親が「二桁ならたいしたものだ」とやたら喜んだのを覚えている。
公立小学校での優等生気分が抜けきらない筆者はひどく不安な気がしたものだけれど、数値を振り返れば、136人中二桁席次なら筆者より下にほぼひとクラス分いた訳で、私立中学校のスタートラインはそう悪くない位置に立っていたんだな、と妙な感慨を覚える。
●地下鉄谷町線での通学に辟易
定められた門限までに学校へ着くのには、実家の最寄駅を7時28分に出る電車が最終ラインであった。しかし、案の定この時間帯は朝ラッシュのピークで、1本早くしたら少しマシかなぁ、と家を出る時刻を日に日に早めて行った結果、教室に一番乗りというほどではなく、しかも混雑が始まる直前でつり革がほとんど遊んでいる状態である、という「最適解」を見つけ出し、高校卒業まで同じ時刻(6時54分)の電車で通い続けた。
ところが、地下鉄谷町線はやはりドアに押し付けられる状況。たった二駅だから、と初めのうちは我慢していたものの、夏服の季節になって音を上げた。
なにしろ、当時の大阪市営地下鉄は御堂筋線の最新型車両に冷房が付いているのみ、谷町線は冷房化率0%だったのである(薄緑色の鋼製車が現役だった)。試しに、普通乗車券を買って国鉄で鶴橋へ、近鉄に乗り換えて上本町へ、という経路で登校したところ、遠回りでも歩く距離はむしろ短くなり、しかも谷町線ほどの混雑はなく8割方が冷房車なので断然快適。2枚目の定期券から鶴橋経由に改めた。
それにしても、非冷房の電車にすし詰めが当然の時代、やっぱり現在と比べて涼しかったんだなぁ。
一眼レフ導入前、"ポケットカメラ"で |
内部進学のため、高校生になっても襟章と帽章だけが異なる同じ制服で同じ時刻の電車に乗るのだけれど、向かいのホームに変化を見つけた。下り電車を待つ女子高校生の二人組、小学校中学年で一緒だった◆子と、高学年で一緒だった■美ではないか。前者はなかなかの美形に成長していて目を瞠った。公立では上位のT高へ進んだとみえる。若き日の筆者は視力2.0を誇っていたので、向こうから筆者を認識できていたかどうか分からない。一度も目を合わすことがなかったのは、気づかなかったのか存在を忘れられていたのか。まあ、気づかなかったということにしておきたい。あちらが3年間同じ電車だったかどうかは、気づいた時の「驚き」が大きかったせいで既に記憶がない。
係だの委員だので高学年時にややかかわりの深かった◇香か☆代だったら、制帽を振って見せたりしたかなぁ……と想像してみても、そんな勇気は出せなかった可能性が高い。
男子校生活での、極めて希少な「女の子の記憶」である。以下、中学生時代に話を戻す。
●「Kai-chan剣道部へ」の怪情報
電車通学を始めて間もない頃、小学校時代の友達から電話がかかってきた。
「お前、剣道部に入ったってホンマか?」
「なんやそれ。そんな話、どこから回ってきたん?」
聞けば、竹刀と防具袋を抱えて駅から出てきたという目撃情報があり、あのモヤシ系優等生が心機一転剣道部か? というのがかつての友人グループで話題になったそうな。
「違う違う、あれは全員が買わされる」土曜日は"朝練"と称し7時半までに登校、剣道をやらされる、時間割にも『剣道』があるのだ、と説明したら
「凄い学校に入ったんやな」と感心された。
文章化していてまたひとつ記憶が甦った。小学校の卒業式を終えた帰途、普段と何も変わらない雰囲気に流されて、いつもどおり「んじゃ、バイバーイ」で自宅へ向かう路地に入り、そのときになって、そうだ、あいつらとは二度と会わないかもしれないんだっけ、と気がづいた。
なにしろ、公立中学校へ行くには小学校の門前を素通りするのが最短経路で、ほかの連中は新学期になっても服装を変えただけで同じ道を歩くのだから、特別な空気が発生する余地がない。もうちょっと別れを惜しんでおきゃよかったな、と中学1年生のうちはしばしば後悔した。ただ「(公立中学の)野球部を覗いたら思いのほか本格的で、練習がメチャクチャきつそうだから入らなかった」という話を聞いた記憶があり、上記の電話でのことか、会う機会があったのかはもはや定かでない。
●見せたくない成績表
初めての定期試験(中間試験)でも二桁を維持したものの、期末は三桁に後退、この辺りから「数学だけ授業についていけてない」傾向が顕著となる。それでも、二学期以降二桁に戻り、その後もジリジリと席次を上げて行ったのだから、文系科目は初めから健闘していたのだと今さらのように思う。
席替えがあって、お互い「名前しか知らない」のが近くの席にきたとき、業者試験などがあるとしばしばこんな会話が交わされた。
「お前、成績どれくらいなん?」
「ほぼまん中。今回は70位台だからちょっとまん中より下か」
「なんや、オレと同じくらいか。もっと上位にいるのかと思ってた」
ここまでなら「エヘヘ」と笑って済ませられるのだけれど、同じくらいなのだから成績表を見せ合おう、と言われるのが困った。人間関係を維持する上で、これを断る蛮勇(?)はそう出せるものではない。三人くらいに似たような経緯で成績表を見せたが、三人とも同じ反応を示した。
しばし「フリーズ」である。
これは無理もない。何しろ「国語15位、英語25位、数学120位」なんていう個別順位だったから。
「なんやこれは。アホなんか賢いのか分からんな」と呆れられ、
「オレにも分からん」と誤魔化すしかなかった。
夏休みには前期(終業式直後)と後期(始業式直前)に補習授業があり、後期は全員出席で事実上の通常授業、前期のは成績の悪かった生徒だけが出席させられる(科目別)。当然というか勿論というか、筆者は3年とも数学の補習授業に出席(笑)。計画していた団体臨時列車目当ての撮影行がこのために中止させられたときは悲しかったものである。
高校1年になると「全員が同じ土俵に乗る」業者試験では分母が136から1036に変わり、科目別順位は「国語20位台、英語50位台、数学900位台」とさらに派手なことになった。ある試験で、進路決定の参考用に「あなたの文系度・理系度」というデータが成績表に示されたことがある。%表示とともに「*」がグラフ状に印刷されるのだけれど、筆者のは当然ながら「文系度100%」文系側の表示枠いっぱいに「*」が並んでいた。このときは"実情を知る級友"から見せてくれと言われて、
「スゲえな、こんなのたぶんお前一人やぞ」と感心されている(夏休みの前期補習、高校では一科目でもひっかかると全科目に出席を求められるという、えらく非合理的なものだった)。
笑い話の続きという形で「中学校篇」に割り込ませたのは、やがてこれが笑いごとでは済まなくなるためである。詳しくは次回作で。
↓確かこんな感じ↓
あなたの文系度・理系度 | 文系 | ******************* | 文 系度 100 % | 理系 |
●「大富豪」ゲームのローカル・ルール
泊りがけ学校行事の定番といえば、トランプ。その中の定番が「大富豪」であった。学校の最寄り駅が近鉄上本町ということで、大阪府以外では時間距離の短い奈良県から通ってくる生徒が多く(三重県から通う猛者も)、次いで兵庫県と京都府という状況だった。
驚いたのが、そんな範囲でも、出身地によって「大富豪」のルールが違うこと。初参加で、
「え? なにそれ??」と、きょとんとしてしまう事例が相次いだ。
筆者の地元ではやたら単純なルールが知られていて(小学校では「兄や姉からこう教わった」というのがほぼ一致)、同じ数字のカード4枚は「フォーカード」で『革命』などなし。ジョーカーも単に「最強カード」であって、スリーカードの1枚としても使える「万能カード」ではなかったと思う。
びっくりしたのが、通称『連続』34567といった出し方が出来る、というもの。
筆者はどうもこれになじめなかったが、幸い少数派で、たいていの場合、
「『革命』はあり。『連続』はなしでいこう」
という事前協議が成立した。
あのローカル・ルールはどうやって成立していったのだろうか。
修学旅行で信州へ行った際(ひと学年だから「ひかり」と「しなの」の定期列車を利用)、一人当たりカードが5~6枚しかない大人数でやったことがある。初めは面白かったけれど「作戦より運不運」で勝敗が決まってしまうため、飽きるのも早かった。
何日目だったか、朝食を済ませた後になって気分が悪くなり、
「体調の良くない者、手を挙げぇ」
の定番チェックで少し迷ってから挙手。体温が36.8度くらいあって「微熱があるな、バスで待機」と判定され、運動制限のかかった連中と一緒に、ハイキングコース入口駐車場でお喋りしながら数時間を過ごした。
同室の奴に「今日はキツかったぞ。ええ日に体調崩しやがって」と羨ましがられたのを覚えている。
●ヒトは「気迫」なるものを放出するか?
毎日の朝礼では「般若心経」を生徒全員で唱えた後、学校長(違う日もあり)の訓話を聞かされる。
ある日、1時間目の授業は短縮して健康診断を行う、ということになったのだけれど、血圧測定で「後日の再検査を要す」と判定された生徒が続出。生物の教師が呆れかえっていた。
「校長のウダウダ話を聞かせた後、階段を7階("南館"最上階の小講堂)まで登らせておいて、血圧再検査続出? アホかいな」
全般に「学校運営のトップはどことなく歪で、末端の教師はまとも」という感の強い学校だった。
いわゆる同族経営で、上層部はみんなH岡姓。その親玉に、学校運営の実務からは退いた老「学園長」が君臨しており、年に何度かはこの人の訓話を聞かされる。
今も昔も、十代の若者は年寄の長話を嫌う。誰もまともに聞いてやしない。ヒソヒソ私語がだんだん大きくなっていく。やっと訓話が終わって腕時計を確かめ、
「うわぁ、半端な時刻に終わった。こりゃ"時間調整の説教"がくるぞ」
と予測したら、案の定「お前らの聴講態度はなんだ!」が始まる。あるときなどは「隣で聞いている私は気迫に圧倒された」と新興宗教まがいの賛美が始まり、
「この人、アタマ大丈夫?」と本気で考えたことがある(それでも小学校の反戦左翼教育よりはマシだとも思った)。
が! 後にちょっとした事件が起こった。何年生のときかは記憶なし。
他のクラスにいるテツ仲間と職員室付近で落ち合う約束をし、相手を待っていたとき、裏門に高級そうなクルマが横付けされ、学校長が降りてきた。しかも何か用件があったらしく"末端教師用"職員室に向かってきたではないか。
佇んでいる筆者の前で足を止め、
「しっかり勉強してるか」
「ハ……ハイ」
前言撤回! さすがバリバリ現役のマンモス私学経営者、迸る気迫に圧倒されたよ、ホントに。遠ざかってしまえばむしろ貧弱な背中を見送りながら「ビビったあ」と口の中で呟いた。
でもね、"マイクとスピーカーを通した訓話"じゃ気迫なんか伝わらないぞ、やっぱり。
●団体臨時列車の乗客
進学塾でのランクが「C」だったことが示すように、物凄い難関校名門校というほどではなかったこともあり、ウリの一つが、月に一度は通常授業ではないなんらかの行事がある、というもの。そのためしばしば団体臨時列車に乗っており、回数が多すぎてよく覚えていない。笠置駅付近の河原で関西本線の荷物列車(!)を目撃したのは貴重な体験ながら、往復はバスだったと思う。
最も印象に残っているのは、1年生の3学期が終わった後に行われた「志賀高原へのスキー実習」で、遠路はるばる12系に乗って行った(往路は昼間、復路は夜行)。注目すべきは、
「集合は大阪駅、解散は天王寺駅」
つまり、復路は関西本線経由だったこと。朝もやの中、12系での加太越えは今でも微かに覚えている。
記憶を整理したら、中学生が全員参加。皆が内部進学ということで、卒業式を終えた「旧3年生」もいたことを確認している。というのは、なんと大学鉄研の先輩がこれに乗っており、あるとき「関西本線経由の12系団臨」が話題に上って、
「それ、私も乗ってました!」
逆算するとその先輩は「旧3年生」だった筈だから。生徒数から想像するに5両編成だろう、今はなき竜華客車区の車両が使われた。天王寺で我々を降ろした後どうしたのか、今となっては首を傾げる読み手が多いかもしれない。現在のJR難波、当時の湊町は1984年まで貨物駅も併設した大きなターミナルで、旅客ホームにも機回し設備を備えていた。ここへ回送し、機回しをして竜華へ帰区した筈である。
このスキー実習、残念なことに翌年から「希望者のみ参加・バスで神鍋高原」に変わってしまった。
もしかすると「民営化後は3社にまたがってしまうので団体列車を設定できなくなる可能性あり」と国鉄から言われたのかもしれない。
学校行事の際には、体操服で制帽をかぶって来い、と珍妙な服装を指示されたことが多々あったなぁ。
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○BSテレ東「THE 名門校」に母校が
土曜日の朝、BSテレ東で「週末唯一の左傾偏向していないニュース番組」を見てテレビを消さずにいると「THE 名門校」という学校紹介番組が始まる。2024年、我が母校「大阪●風(在学当時は単に「清●」)」が登場。総生徒数がかなり少なくなり、6年一貫の方が多数になった模様。生徒数は少子化の影響というより消防法の規制強化によるものではないか。往時は朝礼の際など斜めでも50mに満たない運動場が3,300人の生徒でギッシリだったから……。
余裕が出来たため、食堂があり壁に飲料自販機がズラリ! 羨ましい。
我々の時代は、日直当番が「一括購入」用紙に注文を集計し窓口に提出、昼休みにその商品が届くのと、ヤカンに入った不味いお茶が出される以外、校内で飲食物の提供はなし。
○自殺者発生
これも2024年、定期試験で不正行為を行い処分を受けた生徒が自殺するという事案が発生。民放地上波某局のニュース(NHKほどは左傾偏向していないので時々見ている)では、全科目0点に加え多量の写経は処罰過剰であるかのように報じられていたけれど、少なくとも昔は生徒手帳にこう明記されていた。
『不正行為ありと監督がみなした場合、その試験はもちろん、その期間中の試験科目全部について0点とし、無期休学もしくは退学を命ずる』
番組製作者は把握していないのか、知らないフリをしたのか。十中八九後者だろう。NHKより「は」マシという程度の番組だから。
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