撮影後、見老津駅に戻り、田辺市内のコンビニで調達しておいた総菜パンを遅い朝食にしていたとこ
ろ、珍しく他にも公共交通機関を足にする撮影者が駅舎に姿を現し、筆者の姿を見るなり、
「おや、食事中ですか?」
と声をかけてきた。筆者より5つばかり齢上と思われたが、最初の一語に人柄がにじみ出ていて、す
ぐ昔話が始まった。普通列車が急行型電車に統一されていた時期に話が及ぶと、相手はちょっと遠くを
見るような目になって、こう言ったのをはっきり覚えている。
「あぁ、あれは夢のような時代でしたね」
そのとき、筆者はごく僅かに反発を感じた。
あれが当たり前で、今が異常なんじゃないか!
それから10年以上経ってみると「あれは夢の時代」というのが正しいような気持ちになっていた。年
号を示せば、急行型電車の天下は1986年から1997年まで、たった10年あまりである。
それが随分と長く続いたかのように錯覚されるのは、高校3年間と大学4年間がちょうどその中へ収
まっていたからだろう。考えてみれば、さらに以前の「客車列車2往復以外は近郊型電車」という状況
など10年に満たない。幼稚園児の頃、白浜駅で80系気動車の「くろしお」を降り、次に乗った普通列車
がキハ35系という通勤型だったのを微かに覚えている(どうしてそんな幼い頃からこの地に縁があった
かについては、こちらで詳しく紹介)。はっきり物心ついてから大学を出るまで、和歌山から新宮まで
ロングシート車が1両もいなかった、というのは、生まれた時期が良かったというだけなのだ。
でもそのお蔭で、幾度となく楽しい旅をさせて貰った。 |