突然ながら、生まれて初めて「鉄道」にカメラを向けたときの写真を大公開!
 いつもは画像処理ソフト上の切り抜き機能で傾きを修正するのだけど、これは 
傾きが大き過ぎる上に、構図にも切り抜き余地がないことから。CSSで写真全 
体を傾けてみた。
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紀勢本線 椿駅  1981. 3 (1982. 3 かもしれない)
 この当時、椿にも駅員がいた! 紀勢西線の無人駅は宮前・紀伊姫・紀伊天満の3駅だけだったのだ!
 
え? 時代は感じるけど特に違和感がない? でもこれを撮ったのって……
 
 
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 この子だよ 
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 潮岬灯台にて母親が撮影。小学校4年生のとき、という記憶はあるものの、明ら 
かに春休みなので、4年生の3学期が終わった後なのか新学期から4年生なのか、 
既にはっきりしなくなっている。蛇足ながら、髪が茶色いのは生まれつき。齢とと 
に黒くはなったけれども、集合写真など見ると大学時代でも茶色いのが分かる。 
(他の写真では褪色を補正したとき髪も自動的に黒く修正されてしまった) 
 これは"第二の我が家を起点とした日帰り旅行"で、椿から急行「きのくに2号」 
(紀伊田辺発新宮行)に乗ろうとするとき、行き違いの客車列車(新宮発和歌山市行・ 
121レ)が入ってきたのを見て、 
「あれ、写真に撮っておきたい。カメラ貸して」 
 と言ってシャッターを切ったのが冒頭の画像。まだ「バカチョンカメラ」は世に 
現れたばかりという時代で、我が家にそんなものはなかった。あったのは何から何 
まで手動の小さな35mmフィルムカメラ、使い方を教わったばかりの頃と思う(お 
そらく大和光機製PAX35、筆者幼少期の画像はすべてこれで母親が撮影したもの)。 
 
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 登場後2~3年の「新型電車特急」でもなく、気動車急行でもなく、なんで「旧型客車」 
を「撮っておきたい」と思ったのか? 記憶は何もないけれど、何らかの「魅力」を感じて 
はいたのだろう。牽引機「EF58」にはあまり関心がなかったようである。 
 
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もっと小さな頃、"第二の我が家"にて。

 これを見て「あ、玉椿センチュリーマンションだ」と気づくことが出来るのは、1970年代に現地を 
訪問された方くらいだろう。そもそも、24時間365日潮風を浴び続けるこの位置に鉄製の遊具という 
のは無謀としか言いようがない。曲線だけで構成されたバルコニーの柵も材質は鉄! 最初の「大規 
模修繕」で早くも全面交換となり、おそらく材質が鉄ではなくなった影響で、直線部材による構成に 
変更。海側から見た印象は大きく変わった。 
 写真の筆者は3~5歳くらいかな。ということは……紀勢西線は電化前、天王寺駅から乗ったのは 
急行「紀州5号」名古屋行に違いない。停車駅は和歌山、御坊、紀伊田辺、白浜、椿、周参見……と 
いう勇ましい急行であった(当時、御坊に停まる特急は上下1本ずつのみ)。 
 ママ~、4歳のボクにカメラ貸して! 古座ヴィラでキハ81系「くろしお」というのはムリとして、 
御坊の貨物側線でワラ1とかトラ90000を(←それもムリでしょ)。
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 蛇足。厭な予感がして調べてみたら「バカチョンカメラ」は放送禁止用語だと。 
筆者は「差別用語」など存在しないという立場なので、絶対に言い換えない。 
 ある言葉をなくしてしまえば「差別」が解消するという左翼の頭の中だけはどう 
にも理解出来ない。それ以前に「バカチョンカメラ」という名詞のどこを探しても 
差別的要素など存在しないのに……
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阪和線 天王寺駅  1985. 1 
 定期気動車急行の数少ない写真。一眼レフ 
導入直前、本棚で誰にも使われず眠っていた 
「ポケットカメラ」で撮影。メーカーも機種 
名も今となっては分からない。コダックのロ 
ゴが入った黄色い外箱があったような気もす 
る(記憶は曖昧)。 
 110フィルムと称する規格の極小ネガなの 
で画質は悪く、軽すぎて手ブレも起こしやす 
かった。 
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