朝来駅の「乗車券発売所」で売られていた硬券乗車券。発行は
D紀伊田辺駅と印刷されている。天王寺まで、と帰りの切符を買
おうとしたら「(運賃表距離区分の関係から)この方が安くなるの
で」と2枚を発券してくれた。"通し"だと2800円になる。
 アナログ時代ならではの配慮で、これもまた懐かしい。

 

 

 周参見駅 1987.10

 当初はこの写真から改札部分と「完全手
動超アナログ」の列車案内札を画像処理ソ
フトで切り抜き、椿の改札跡写真に"移植"
して最終ページに載せようようと考えてい
た。特急を急行に書き換えるのは容易なが
ら、JRマークを不自然にならぬよう削除
するのが厄介であることに気づき、駅員の
姿も活かしたくなってそのまま掲載。駅員
無配置駅は、窓口が業務委託で復活しても
あくまで「乗車券発売所」で改札口は自由
通行、昔ながらの改札風景は撮影時でもか
なり希少なものとなっていた。
 気動車急行のキロ28に通じる容姿のグリ
ーン車、サロ381国鉄塗装も懐かしい。
 この頃、駅前広場には「周参見駅の建て
替えを」という幟が立ち、高校生だった筆
者は「何という愚かなことを」と心の中で
憤慨した記憶がある。結局、それは"実現"
してしまった。

 その後、周参見も「駅員配置駅」ではな
くなり、2021年には窓口での切符発売を取
りやめたそうである。

 帰りの特急券を周参見で買うと発着駅が印刷されていたので、"西"標記が記載されるようにになった、
地紋が"こくてつ/JNR"から"JR/W"に変わった、と券面の変化を確認する度に(椿から)周参見まで
買いに行っていた。でも、どうして「くろしお_号」は印刷しなかったのか分からない。

 

 

1988. 7 

 この夏から臨時急行の列車名
は"南紀リゾート"、全車指定席
というのに驚かされたけれども、
不評だったのかこの夏のみ。椿
で普通列車と行違う場面をきち
んと(?)記録している(撮影時
の記憶ナシ)。
 ポジを直接スキャンした写真
は「急行」字幕もはっきりとは
読めん(苦)。

 

 (昭和63年=1988年)
 「第二の我が家」を前進基地にして古座川橋梁へ撮影に行った際の、思わぬ「涼しさ」に味を占
め、古座から御坊まで僅かに100kmを下回る距離であることにも目をつけて(ひと区間先まで買え
ば御坊で途中下車となり、"着駅式A型硬券"を確実に持ち帰れる)、翌日は紀州鉄道を撮りに行って
いる。古座川の岸辺と比べれば、御坊市内の平野部は"それなりに"暑かったけれど(笑)。
 椿で途中下車が出来ることから、A型硬券1枚1,800円が安く感じたのは今でも覚えている。椿
が拠点だと「青春18きっぷ」はさほど割安にならず、何百円か高い程度なら硬券の方が魅力、とい
う訳で、中学・高校時代は一度も18きっぷを使わずに終わった。
 発行がD串本駅ということは業務委託だったか? でも○囲みムの記号はない(謎)。

 学校が方針転換をし(成績が思わしくないため6年完全一貫教育を諦めた)、高校から入学してきた
連中と一緒に「その他大勢クラス」に組み込まれてからは、数学の落ちこぼれが解消。一転して学級
内で首位争いを演じることになった。担任(今度は超得意科目である現代国語の教師)からはっきりと
「今以上の家庭学習時間はオマエには必要ない」と言われたりしたもので(目の前の点取り競争にム
キになるな、という意味)、1988年の夏休み期間は4回も撮影に出かけている(3回は紀勢西線)。
 といっても、1987年は現実逃避で遊び回っていたからあまり行動に変化がない訳だが(爆笑)。

 

 

 1988年夏に「玉椿センチュリーマンション」の廊下からこんな写真を撮っていた。椿温
泉も現在に比べれば繁盛していただろうけど、ここからの光景は今もそう変わらないかもし
れない。煌々と明るいのは「ヴィラ椿5号館」の廊下部分。営業をやめて間もない時期だっ
た筈の「椿グランドホテル(火災を起こしてそのまま廃墟化、というのは俗説)」は高層マン
ション「プレジデント椿」の向こう側に隠れて見えない。

 1988年といえばバブル経済まっ盛りの時期ながら、椿温泉は既に凋落傾向を見せていた。
インターネット上を調べてみると、若い書き手の中には「高度成長期」と「バブル期」を混
同している人まであり、アナログ世代としてはそれ自体が感慨深い(齢)。