"イメージ写真"で過去へ戻ったついでに、ちょっとだけ時代を巻き戻し。

 

 1985. 2 南海電気鉄道 難波駅

 次姉から借りた"バカチョンカメラ"で撮影。南海の気動
車も、こんな写真しか残せなかった。
 たまたま居間を通りかかった父がこの写真をチラッと見
て呟いた言葉を、妙にはっきり覚えている。
「そうか、(国鉄の定期急行と一緒に)これもなくなるんや
なぁ。1回くらいこっちにも乗っておけばよかった」

 最後まで新宮へ行っていた筈なのに、連結位置のせいか椿駅で見たという記憶がない。
印象に残っているのは車内放送。南海編成は最後まで非冷房だったので、夏になると「何
号車から何号車の自由席は冷房車です、ただいま空席もございます」なんていう案内も。
 このカメラ、フラッシュ自動発光停止機能ナシ、日付刻印を停止する機能ナシ、ズーム
機能ナシの単焦点というシロモノであった。形も何も記憶になく、メーカー・機種名とも
調べようがない。

 

 

椿に停車した初の特急は381系

1985. 8

 椿に初めて停車した特急は天王寺-周参見間運転の不定期列車(天王寺-白浜間季節列車、
白浜-周参見間臨時列車)。撮影時には485系による定期特急列車が停車していた訳だが、写
真の列車(といっても判別不能ながら、これは椿に停車)が初めて設定された夏は、マンショ
ンのフロントで「椿駅特急停車記念/椿温泉観光協会」の文字が入ったタオルが配られた。
 1986年の写真で工事中の2番線ホーム延伸部は、まだ影も形もナシ。
 こうしてみると、21.3m車の9連って長~い!
 電化前の急行「紀州」も相当の長編成だったけれども、椿駅のホームは4両分くらいしか
なかった。跨線橋もなくて、駅員が鉄板をパタンと裏返すと階段が現れ、踏切を渡った位置
に改札があったのを辛うじて覚えている。
 父には多少の「鉄分」があったようなのに、写真を残すという発想がなかったのは残念。

 

白浜駅 1985. 8

 1985年といえば、話題の中心はこちら。開かずの扉がついに開いた……というお話。
側線では増結編成が大口を開いてお昼寝中。気動車急行をそのまま置き換えたこの列車
には、やはり無理が多かった。485系のまま年々スピード・アップを重ねた「雷鳥」は
6M6T12連から6M3T9連へという、事実上の出力増強がなされたのに比べ、こち
らは4M4Tまたは2M2Tで、それを振子式381系と同じ線路上で走らせようという
のだから。白浜で485系特急を降りると、10分もすれば天王寺を30分後に出た381系特
急が到着するという妙なダイヤであった。
 車両も古いものばかり回され、大部分がリクライニング機構のない回転クロスシート
と、車内設備でもかなり見劣りがした。

 

 硬券蒐集と天王寺の関所

 国鉄時代、使用済み切符の取り扱いについて明確な規定はなかったようで、使った硬券をくれるかどうかは
人によってまちまちというのが実態であった。特定の線区を繰り返し行き来する環境(一般的には本人や両親の
帰省先、筆者の場合"第二の我が家"と母の郷里)に置かれていた場合、やがて経験則が生まれ、たいてい貰える
駅、係員によって対応が分かれ五分五分の駅、絶対に貰えない駅、という情報が脳内に蓄積されてくる。
 困ったことに、南紀への玄関口であり、実家最寄り駅のある私鉄への乗換駅でもあった天王寺は「絶対に貰
えない駅」の代表格であった。といっても、"乗車券の入場記録"どころか自動改札もない時代だから、通勤・
通学定期券が強い味方となった(100km~200kmの乗車券は「途中下車」して前途の権利を放棄するのが最も
正当なやり方ながら、規則を理解していない改札係が根拠不明のことを言って切符を持っていこうとする例が
後を絶たなかったのである)。
 乗車券はかように表裏の逃げ道があったけれども、厄介なのは、天王寺1・2番線が「優等列車専用ホーム」
だった頃、特急券・急行券をチェックする中間改札が設けられていたこと。これが、恐ろしい"天王寺の関所"。
 国鉄改革のあおりで、この中間改札も運用状況が二転三転し、厳格になって係員のいない時間は通れなくな
っているかと思えば、車内整備の終わる前後だけ係員がいて「これから乗る」客だけ確認し無人の時間帯が多
くなったり、終始無人になったり。これらの状態を『行ったり来たり』したもので「エッ? 合理化で廃止され
たと思ってた改札に係員がいる!」と、せっかく入手した"D型硬券の特急券"を泣く泣く渡してしまった記憶
も少なからず残っている。
 営業規則に詳しい種村直樹氏によれば、切符の回収に関する「当局の公式回答」は、不正利用防止のため、
有価証券iに相当するため、という一般論的なものでしかなかったという。とはいえ「不正乗車には当たらない
から」と改札口を強行突破したりすると『威力業務妨害』で立派な犯罪行為だから、営業規則を把握し理論武
装を行った上で改札係と闘うのが硬券好きにとっての宿命だった。

 時代は変わって「蒐集テツ」が興味を示す対象に"切符"が占める割合は、随分と小さくなってしまっている。

 

 中間改札があるということは、付近に特急券を発売する窓口もある。指定券を管理するコンピュータ・
システムの"マルス"端末も入っていたけれど、自由席券・乗車券は主に硬券で売られていた。特急列車が
新大阪発着主体となったことで、中間改札と共に窓口も廃止されている。
 往路の『朝来・椿間ゆき』乗車券は国鉄時代のものしか手元にない。民営化後、それまでおざなりだっ
た「車掌による駅員無配置駅での乗車券回収」がマメに行われ、改札係と違い揉めると列車の遅れに直結
してしまうことから、手元に残すことを諦めた結果である(ひと区間先の周参見ゆきはJR仕様のが手元に
ある)。その周参見ゆきの切符を持っていかれそうになたったときはさすがに「途中下車です! 後で周参
見まで行く予定です」と抗弁した。嘘つき? いや、予定を変更しただけ……というのは冗談で、未使用区
間のある途中下車可能な乗車券を勝手に回収する方が規則違反。磁気式の長距離乗車券なら自動改札機だ
ってちゃんと返してくれる。

 

 

1986. 9 

 1986年3月に竜華機関区へ転入した
EF60の貨物用は僅かに両数が足りな
かったようで、EF15が1両だけ貨物
列車の廃止まで動き続けた(158号機)。
 貨物列車の時刻は把握しておらず、
紀伊富田で偶然撮影出来たことに満足
して、椿まで乗った113系を降りたら
目の前にワム80000!
 厭な予感がしつつ牽引機を確かめた
ら、やっぱりコイツだった。
 あとひと電車、紀伊富田にいればス
ッキリとした列車写真が撮れたのに。

椿の3番線も今は下り方の分岐器が外されて保線用へ格下げ……