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 和佐駅 1988.12

JRマークはつけてなかったんだ!
……とスキャン後に気づいた(笑)。

12系お座敷車、初期の姿

 

 

 上は外観の変化が少なかった時期のお座敷客車(竜華客車区→和歌山電車区新在家派出所)。
写真は団体臨時列車だが、臨時急行「お座敷きのくに」として走ったことがある。後に派手
な塗装となって筆者は眉をひそめた。もっとも、近年の水戸岡某による下品なシロモノに比
べればずっとずっとずっとずっと……といくつ続けても足りないくらいマシではあった。
 下は宮原客車区のお座敷客車「あすか」で、これも写真は団体臨時列車。1988年夏に臨時
快速「サマーイン白浜」として走ったことあり。

 

 

お座敷客車「あすか」のラウンジカー。水戸岡なんとかに比べずっと品のあるデザイン

 朝来-白浜 1987.12

 軽トラの主がわざわざ農作業を中
断して筆者のところに歩み寄り、
「いま、変わった列車が通ったね。
あれ、なに?」
 と尋ねるくらいインパクトはあっ
た。普通に編成写真を撮った後のつ
いでカットながら、この方が構図と
しては面白い。

 

 

"あとがき"だか蛇足だか

 古いアルバムから写真を選び出していて、1987"年度"の終盤は4ヶ月続けて「撮影行」に
出ているのに気付いた(10月11月・12月↑)。1988年1月は岡山県高梁市に用があるとい
う父親と岡山市内で同宿、行き帰りを含め日中は"単独行"で、下津井電鉄同和鉱業片上鉄道
を訪ねている。高校時代としては異例。精神的にかなり危険な状態だったと思う。
 それでも、当時は居住地(大阪府)を離れさえすれば、日常から……もしくは現実から逃避が
出来た。ネット・スマホ時代の今だったら、どうなっていたか分からない。

 かなりの老舗である文芸同人誌に入会金を払い、数週間後に受け取ったのが休刊通知(後援
の出版社が経営破綻)という、傍から見れば漫画みたいな悲劇に見舞われたのは1997年。母親
の死は2017年。はっきりした記憶はないものの、幼稚園で大きな怪我をしたのは逆算すると
1977年であった可能性が高い。どうも「7」で終わる年は鬼門のようである。
 同人誌の件を話すと「詐欺に遭ったの?」という反応が返ってきたりするけれど、ただただ
巡り合わせが悪かっただけ。翌年にはどこからも後援を受けない形で復刊、9年ばかり在籍し
て、結局は不幸な形で終わった。2006年末には「終わって」いたのだけれど、事務局の女性
に慰留されてグズグズしているうちに2007年入り、ここで正式に脱退(苦笑)。
 この調子だと、くたばるのも20X7年かな? (入院&手術は2018年で少し外れた)

 気がつけば「物心ついた頃から紀伊田辺以南は通勤型電車だった」世代が社会に出るという
時を迎えていた。まるでそれを見越したかのように、新宮以東も通勤型気動車に統一。紀伊半
島の鉄道旅情は暗黒の時代を迎えた。
 実は2016年をもって法的に和歌山県とのつながり(登記とか税金とか)がなくなったので、厭
なら行かなければいい、行く必要が生ずることもない、という状況になった。
 詳細はこちらのページをご覧頂きたい。

 

 

 

 

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