紀伊富田駅 1986. 9

 電化から1986年10月まで、
普通列車は113系の4連。(客
車列車は1984年から12系)
冷房改造車は紀伊田辺以南へ全
く入らなかった。といっても、
"敬老の日"がらみの連休だった
撮影時、ほとんど"暑さ"を感じ
なかったという記憶がある。

普通列車が113系阪和色だった頃の紀伊富田駅

 

 

 

1986. 9

 電化後1日3往復(うち1往復は夜行)を維持してきた客車列車は、1986年3月から昼間
と夜行1往復ずつとなり、10月に消滅。マニアックなことを言えば、直流電気機関車が牽引
する最後の定期普通客車列車であった。
 考えてみると、本当に「第二の我が家」がなければ撮れなかった写真はこれ一枚かもしれな
い(中学生が朝8時台の椿駅で撮影)。勉学、特に受験勉強と撮りテツの無理なき両立という面
ではおおいに役立ったが。
 確かな記憶ではないものの、9月半ばの雨の朝、意外と混んでいた列車の窓ガラスが結露し
ていたような……(今ならまだ熱帯夜の季節だぞ)。
 11月以後、381系の9連も日常的に停車するようになるため、2番線ホームを延長工事中!

 

 

 椿が「駅員無配置」となったのは1985年3月(主要駅以外一斉に)。沿線自治体の衝撃と
危機感は相当のものがあったようで、1年も経たないうちに、白浜町が人員を派遣して元の
出札口が「乗車券発売所」として復活。確認出来た範囲では、朝来(ここは貨物扱が残って
いため駅員無配置化は1年遅れ)と紀伊日置(当時は日置川町)でも窓口が開いた。
 臨時急行が大量に走った1986年(=昭和61年)夏は画像の通り硬券の急行券まで用意され
ている(発行がF白浜駅と印刷されているので、定期気動車急行の"売れ残り"ではない)。残
念ながら指定席券はは作られず、臨時急行の指定席を頼むと補充式大型軟券が出てきた(特
急は硬券!)。
 ○囲み「ム」の記号は無人駅のムかと思いきや、規則上は「切符の発売範囲に制限のある
発売所」を指すそうな。初めは乗車券にだけ付されていたのが、やがて特急券にも記載され
るようになる。
 それにしても、椿の乗車券発売所に割り当てられた「F白浜駅」には謎が多い。アルファ
ベットのこんな後ろにある文字を近辺では見たことがない。朝来は「D紀伊田辺駅」で紀伊
新庄と紀伊富田は終始"完全無人"、紀伊日置は「B周参見駅」だった。椿の最後期は「C周
参見駅」へ変更、これは紀伊日置の次で綺麗に順番通りだが、DとFは単なる窓口記号では
なく何かの頭文字だったのだろうか?
(昔のことだけにインターネットの情報は多くが不正確で、椿の駅員無配置化と簡易委託の
開始には時期に間隔があった)

 駅員無配置化直後の春休み、椿は完全な
"無人"駅。帰りの切符が車内補充券という
のは寂しいので、貨物の関係で駅員配置が
残った朝来(住友セメントの専用線があっ
た)へ、わざわざ硬券を買いに行っている。

 

 

紀伊富田駅 1986. 9 

 撮影時でも紺地に白文字の駅名標は希少なものであった。
その後の一時期、近くの中学校が"荒れて"いたようで、ガラ
スのないアルミサッシ窓にどきつい青色に塗りつぶされた内
壁(落書きを消したか)と、ひどい有様に唖然としたことも。
短期間で落ち着いたらしく、改築された駅舎は"平穏に"建っ
ている。
 元の木造駅舎は、周辺各駅と異なる石材を多用した造形。
木造らしくないなぁ、とお気に召さなかったのか(苦笑)、こ
んなのしか撮っていない。

国鉄末期の紀伊富田駅