臨時客車快速を椿で追い抜く381系くろしお

1987. 8

 竜華機関区・客貨車区がなくなった後、客車は和歌山電車区新在家派出所の所属、ディーゼル
に逆戻りした機関車は亀山機関区の所属となった。3番線で特急を退避しているのは、臨時夜行
快速「いそつり」の"帰区列車"で、この夏は周参見まで回送、そこから快速列車として和歌山ま
で客扱という妙な設定だった。
 今から見ると「亀山区所属」が奇異に感じられるけれども、1989年3月までは草津線経由で
柘植から京都までの普通客車列車(50系)運用があったので、そこから足を延ばす形だったのだろ
う(下の写真参照)。
 向日町に常駐する機関車がいたかもしれない(向日町に機関車の配置はナシ)。

 このとき持っていた切符は、高松駅発行・南近畿ワイド周遊券。関西本線より南はすべて自由
周遊区間、つまり「くろしお」と「南紀」は始発駅から終着駅まで自由席に乗り放題という、今
から思えば物凄い切符であった。価格は16,900円で10日間有効(1987年当時)と、フル活用すれ
ば「高松と大阪(市内)の往復」分を権利放棄しても「青春18きっぷ」より安かったのた。学割な
なら当然もっと安くなるものの、詳細な旅行計画を学校に出す必要があったので無理(爆笑)。
 新宮から乗った「くろしお」を椿で降りたとき、集札にホームへ出た車掌が券面を見て、
「四国へは当分帰らんとみえるな」
 と言った。高松からの周遊券を持った明らかな未成年が、有効期間の終盤に椿なんぞで降りた
ものだから「コイツ、"プチ家出"か?」と気にしての"声かけ"だったかもしれない。
 別にやましいことはしていないので、
「実は大阪に住んでます。母の郷里が四国で、ついでがあったので買ってきました」
 と説明したら、
「はあーっ、上手いこと考えたなぁ」と、やたら感心してから車掌室のあるサロ381に消えた。
 この夏は紀勢東線側で面白い臨時列車が走ったことから、まず勉強道具だけ持って"第二の我が
家"へ向かい、2日分ほどの宿題を片付けた後に「空身」で夕刻の特急へ駈け込んで帰阪。翌朝は
撮影機材だけ持って関西本線経由で紀勢東線へ"撮りテツ"に出撃という、なかなかの名案を実行
に移したのであった。

JRグループ最初の夏、券面はまだ"国鉄線"。
「ワイド周遊券」は正式名称じゃなかったらしく、券面に記載がない。

 

草津線/関西本線
柘植 1989. 2

 客車を留置線に入れ
た後、関西本線上りホ
ームで発車を待つDD
51。これからネグラの
亀山へ帰る。

 

 

 高校時代、科目による学力差が極端に大きかったところへ、成績別のクラス編成と学校の方針
転換という事情が重なって、学級内ワースト5争いの"落ちこぼれ"が、年度が変わった途端に学
級内トップ5争いの優等生へ変身するという、凄まじい体験をしている。
 1987年度(1年生、といっても中高6年一貫カリキュラム4年目)の夏休みは既に落ちこぼれ
が鮮明となっており、ワイド周遊券で乗り回っている場合じゃなかったのに、完全な「現実逃避
モード」となってやたらと撮影行に出ていた。下の朝来付近はその典型(目当ては臨時急行)。
 ついて行けなくなったのは数学1科目で、文系科目は平均点を越えていたから普通はそう極端
な低成績にはならないのだけれども、特殊なカリキュラムゆえに得点計算上は数学が2科目ある
状況だったため、エラいことになった(しかも数学の教師が担任……)。

 

朝来駅を通過する381系くろしお

朝来駅 1987.10

 朝来といえば、"涙の思い出"がある駅。駅名標と小さな上屋が写っているが、ここは駅
舎と逆方向のホーム端に近い場所で、おそらくは荷物上屋。撮影時には普通列車の停車位
置から離れ、何の役にも立っていなかった。
 381系はまだ登場から10年も経っていない頃、ベネシアンブラインドがよく分かる。南
の海を眺めるのには都合の良い設備だったけれど、保守管理がよほど面倒なのか、晩年は
全車横引カーテンに改造されてしまった。