波打ち際をゆく381系9連の特急「くろしお」

紀伊田原-古座 1990. 3

 1990年に入った途端、椿駅で撮った写真がほとんどなくなる。理由は簡単、受験勉強から
解放されて、椿と"第二の我が家"に「無料宿泊地」以上の意味がなくなったため。1990年代
前半はかなり頻繁に泊まりに行ったし、友人を連れて行く機会も出来た。
 その中に♀がいたかどうかはご想像にお任せしよう。
 上の写真は光線状態から見て、やや強引な日帰り撮影だった可能性もある(記憶ナシ)。

 

 窓口から硬券乗車券が急速に消えていったのも1990年代である。最後まで残ったのは、面白
いことに私鉄がらみの窓口だった。左は南海が管理していた和歌山市駅で、右は鶴橋駅の近鉄
が管理する区域内にあった窓口(近鉄→JR乗換口)で売られていたもの(薄くて読み辛い日付は
平成4年=1992年)。和歌山市には1993年時点でも硬券乗車券があった。
 左の切符は"入手経緯"がよく分からなくなっている。平成元年(=1989年)12月といえば大学
受験直前の冬休み。勉強道具だけ抱えて椿へ行ったとして、なぜ和歌山市を経由したのか。車
掌に持っていかれる虞れがある"椿ゆき"を買ったのも民営化後は異例。
 そういえば、とこかで車掌に「これ、今どき珍しい切符なので貰えませんか」と率直なこと
を申し出て「あー、まぁいいでしょう。どうぞ」という感じで許可を得た記憶がある。それが
この切符だったかもしれない。だとすれば硬券が出てきたのも予想外だったか。

 

マンション前の岩礁 1994. 8 

 このときはテツ仲間の中で身長がトップ5
に入る2人が同行していたため、情けない絵
になった(笑)。

 

 

 

湯川駅 2003.10

 臨時復活運転の気動車急行「きのくに」を撮りに行ったときの写真。381系9連がこの塗装で走っていた
のはごく短期間ではなかったか……と一旦は記してから、そうでもなかったかと考え直す。165系/167系の
臨時電車急行だってたった5年間、それよりは長期にわたって見られたのかもしれない。
 オトナになってからは時間の尺度が変わる。40歳と45歳で大きな違いはないように感じられるけれども、
10歳と15歳じゃ大違いだから。
 集中豪雨かと不安になる状況ながら、短時間で止んだため大きな支障はなし。ただ、バスで宿泊地の串本
へ向かう計画は諦めざるを得ず、通勤型の各停電車で我慢(そのバス路線も今はなし)。

 

 湯川駅 2003. 10 

 復活運転の気動車急行。屋根
の下からでも下り列車ならどう
にか「絵」が作れる湯川駅。
 (写真は部分伸)